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解けない(Unexpected survivors5)

末娘が小児病棟の小児用のケアユニット、PICUに移り、毎日の面会時間が長くなった。

ICU逗留の2週間、1日15分程度の面会時間だったものが、ここでは昼11時から夜20時まで親は子供の病床の傍らに居る事が許されるようになる。私は昼11時から上の子ども達が帰宅する夕方15時過ぎまで末娘の傍らについていられるようになった。夜は夫が会社の帰りに滑り込む。朦朧としながらベッドに抑制されて仰臥するあの子が少しでも寂しくないように。

この生活時間、どこかでやった事があるなと思っていたらこれは、末娘が生まれて生後2か月半まで入院していた新生児集中治療室・NICU入院中のタイムスケジュールとほぼ同じだ。朝、家事を片付けて午前11時、NICUの透明なコットの中に眠る末娘に会いに大学病院に出かける。その当時この春中学生になるこの子の兄の息子は3年生で、その下の姉である娘はまだ幼稚園の年長さんだった。この子は4月から小学4年生になる。それで手にしたものを3秒後に紛失する奇術師・息子のランドセルに厳重に自宅の鍵を括り付け、もう1人の娘の方は幼稚園の延長保育を駆使して夕方まで毎日末娘に付き添っていた。

NICUの入室の為にはまず小児病棟入り口のインターホンを鳴らして扉の鍵を解除してもらって病棟に入り、次にNICUの扉、これは2重になっていて1枚目の扉を開けてそこにある前室で手を良く洗い、手荷物をロッカーに入れてから次のスチール製の重い扉を開けて初めて乳児の待つ室内に入る事ができるのだけれど、その前室には大体いつも物凄い音量の乳児の声が響いていて

おお、今日も扉のすぐそこのGCUで元気に泣いている退院間近のお友達が

『GCU』Growing Care Unitと言うのはNICUの中でももう卒業間近で、おうちで家族と過ごすための練習を始めた赤ちゃんの為の場所、そこにいる子はもう体もお外に出られるくらいには成長していて状態も安定し、それだけに泣き声も大きい。だから前室に響く元気な赤ちゃんの泣き声はそのGCUにいる誰かのものだろうと思ったら、それはGCUよりずっと奥のスペースにいる筈の末娘で

「あっ!末娘ちゃんママ来た!」

「末娘ちゃんスゴイ泣いてたよ!」

看護師さん達に登場を心待ちにされて、一足先に我が子に会いに来ていたママ達からはウフフと笑われる。大体毎日そんな感じ。私はいつも慌てて、コンビの電動スイングラックでシューベルトの子守歌に揺られながら「あのダッコ係は一体いつ来るのか」という表情で憤慨している末娘を抱きあげていた。出来るだけ泣かせてはいけないと言われる筈の心臓疾患児の末娘はとにかく癇が強くて、この時期から既に人を故意か偶然か何か不満があると、ひと様の体にぎゅうっと爪を立てるような乳児、赤子ひとすじ数十年という新生児専門のケアユニット看護師さん達をして

「超手強い」

と言わしめるような子だった。とにかく起きている間は8割方泣いているか怒っているか。あの頃、どれほど小児用の睡眠薬・トリクロールシロップだとか、鎮静の為の坐剤のお世話になったものか、お陰で今、末娘は鎮静と睡眠薬が物凄く効きにくい子どもになった。

その手強い末娘は今、大声で泣いたりは出来ない。

手術の日からずっと人工呼吸器を装着している末娘の喉には、気管支まで挿管チューブが差し込まれていて、それを口元でテープでガチガチに固定されている。これだと当然声は出せない。この喉の奥まで管が入っている状態というものは、この子の執刀をしてくれた小児心臓外科医の先生に言わせると

「とても不快だと思います。僕でも自分で引き抜いちゃうかもしれないな」

大人だってすごく辛い物なんですよ。

術場に立てば10時間超立ちっぱなし、その後の術後安定までは決して自宅に帰らない、数値化できるとしたら忍耐力も精神力も桁外れの数値を叩き出しそうな小児心臓外科医の先生が「僕だって引き抜く」というのだから相当なものなんだろう。そしてこの末娘は体の自由が利く時なら、体から出ている管と言う管は、普段慣れ親しんでいる酸素カニュラ以外は誰がどう止めようが自分が不快だと思えば1秒も我慢しないで全部ひっこ抜く、我も気もとても強い子だ。大体3歳児は我慢なんか出来ない。少なくとも私の産んだ子に限っては。小児循環器医の方の主治医が慎重に様子を見極めながら鎮静を減量し、この時にはモルヒネも止めていた末娘は自分の置かれている状況に我慢の限界がきていたんだろう。

また禿げた。

ICU逗留時期に、開胸したままの体を動かせないのでずっと仰臥位をとっていた末娘は、術後の体の血行の悪さも手伝って後頭部に褥瘡が出来た。今はそれが大きなカサブタになっていて、そこに毎日せっせとアズノールを刷り込んで「毛が生えますように」と看護師さん達が念を送ってくれているのに、その横に今度はストレスでハゲ。それを右側臥位、右の横向きの姿勢を取っている娘の髪をとかしている時に見つけて、その日の担当看護師さんに

「この子、褥瘡のカサブタの横に、今度はハゲが出来てるみたいなんですけど…」

PICU常連の末娘をいつも可愛がってくれている看護師にそう言った、どうしよう看護師さんまたハゲてます。

「えー!ホントですか?あ、ほんとだ、ここ髪の毛が無いですね!」

末娘の、幼児にしては多い髪の毛をかき分けて一部綺麗に毛が抜け落ちている箇所を確認し、私とその人は顔を合わせて苦笑いをした。

「ハゲですね…」

「ハゲですよね…」

ICUとかPICUなどの重症者ユニットにそれなりの時間、抑制されて留め置かれている小さな子がストレスで円形脱毛症になるとか、脱毛作用があるような薬を使用している訳でもないのにハラハラと髪が抜け落ちてしまうとかいう話は人から聞いてはいたけど、まさか我が子にも同じことが起こるとは。

「一応、先生に言っておきますね」

「看護記録に『母親がショックを受けている』とか書いておいてください…」

私の焦燥と哀しみを公式に記録に残した上で先生にハゲなんとかしてって言ってくださいと冗談まじりに言ってはみたものの、小児循環器医はハゲを何とかできるのだろうか、むしろ頭皮の上で起きている事は外科の範疇かもしれない、この時私の目に病棟の廊下を歩いていた小児脳外科医の先生が飛び込んだ。小児脳外科医なので末娘は診てもらった事も、多分今後特にお世話になる予定も今のところはないけれど、末娘はなぜだかこの先生が好きだ。普段50歳を少し過ぎている小児循環器医、外来担当の方と小児心臓外科医の2人に物凄く甘やかされているせいでその年頃の男の人が大好きなのだ。先生ちょっとこの人のこのハゲ何とかしてください。

小児病棟には、お薬で脱毛する子もいるし、頭部の手術の為に頭髪を少し不自然な形に刈り込まれている子だって別に珍しくない。それは治療の過程の中での現象なのだから仕方ないし私もすっかり見慣れてしまって、仕方ないよね、ストレスのハゲも長い治療期間が必要な心臓疾患児には起こる事だよねとは思っていたものの、実際その立場に置かれてみると、それは命にかかわらない事だし、命には代えられないけれど地味に辛い。ああ、あの子もあの子も、お薬を始めて髪が抜けちゃうのよと言いながら、確か4つになる女の子の後ろを、あのカーペットをコロコロするヤツを持って追いかけていたママも、皆仕方ないよねと言って笑っていたけど辛かったんだろうなとこの時に改めて思った。

病児が多数派の場所にいると、状態の悪さとか疾患の重さで常に上には上がいる。天井知らずに辛い状況、厳しい条件、遅々として治療が進まないままのの長期膠着状態、そして改善にむけて治療をしていても、その過程で元々の疾患や障害が途中から更に重くなったり、中途障害が起きる事もある、それを

「この程度の事で暗くなってはいけない」

そういう空気が常にどこかにあるので、なかなか冗談としてしか言えないのだけれど、命にかかわらなくても辛いものは辛い。すべてを笑いに変えて吹き飛ばす度量は特にこういう子の人生に必要なのかもしれないけれど、それは周囲が期待している彼女の姿で本人は違うかもしれない。

まさか後頭部に2つハゲが出来ているなどつゆ知らず鎮静と高熱でぼんやりしている末娘を見ながら、私はそう思った。

退院できて、体が大丈夫そうなら、まずは美容室に連れて行ってやろう、可愛らしくこけしっぽいボブヘアなんかにしたらハゲを誤魔化せるかもしれない。何といっても末娘はここを乗り越えれば幼稚園の入園が待っているんだから。



末娘の幼稚園は、この子の上の兄と姉、2人がお世話になった園に決まっていた。

手術がどういう形で終わり、どんな姿で退院する事になるにしても、在宅酸素療法をまだ暫く続けることが既に確定している末娘は、そういう医療デバイスを携帯しながら生きる体で、加えて運動にやや制限はあるものの、私の居住地域では所謂療育園の対象児ではなく、入園を許諾してくれる一般の保育園や幼稚園と言った保育施設を探す必要があった。勿論体の状態を考えて自宅保育をするとか、所謂障害児デイサービスと呼ばれる児童発達支援施設を幼稚園のかわりに使うという選択肢もあったけれど、枠がとても少ないし、どちらかと言うと社交的な性格の彼女は沢山のお友達と遊びたいだろうと思って。そうでなくともいずれは普通の小学校に行くことになる子、ぶっつけ本番で集団生活は少し無理があるだろうと、親の私はそう思った。

そして、そこで思い知った。

末娘には行くところが無い。

全く無いという訳では無いのだけれど、そもそも末娘のような医療的ケア児と呼ばれる子どもを柔軟に受け入れると標榜している保育施設は極端に少ない。

「最大多数の最大幸福」

ジェレミー・ベンサムの有名なあの文言で言うと、末娘はその最大多数から完全に取りこぼされている人間だった。動ける、けれど循環機能が特殊で注意が必要。話せる、でも常に酸素が必要。普通なのか普通じゃないのか分からない。取り扱いの仕方が分からない。何といっても末娘のような子どもをどう定義してどのように扱うべきなのか、そのための法律すら今、この国には存在してない。

そういう子だから当然行政の窓口に行っても適当な受け入れ先は見つからなかった。窓口の人も別に意地悪な訳じゃない。そもそも存在が希少すぎて扱うためのマニュアルが無いのだから仕方ない。それで私は神に頼むことにした、と言うと怪しい宗教に嵌って妙な水を飲んだり壺を買ったりしたみたいに聞こえるけれどそうじゃなくて、カトリック教会のお隣にある神父様が園長の上の2人の子ども達の通った幼稚園に『こういう子を受け入れてはいただけないか』と交渉と話し合いを重ねて、昨年の秋に無事入園の許諾を貰った。

「99匹の羊を置いても、迷い出た1匹を探しに行く」

私は聖書の教えを引き合いに出して、ウチの子を、迷い出た仔羊を置いていくような信仰信条に反するような事、あなた方はしませんよねと言う意味の事を柔らかい表現に包んでそれでもはっきりと話したような気がする。ソフトな恐喝だ。幼稚園は私が作成したA4・数枚の資料を読んで、私のたどたどしいプレゼンを聞いて、なにより本人が面談室をくるくると動き回る様子を見て快諾してくれた。

『とてもお元気だし、この状態なら何とかなると思います』

でも、このやり口が正しいとは思わない。末娘の次に続く子ども達にはきちんとした行政のサポートがあるといいと1人の医療的ケア児の親としては思う。いずれ、必ずそうなってほしい。

それでもお陰で無事に決まっていた幼稚園入園はこの入院の長期化で先が見えなくなってきた。術後数日は命そのものが危ぶまれたし、今、呼吸状態は改善してきたものの、菌の感染なのかそれとも別の理由なのか分からないまま発熱が続き、加えて血圧と静脈圧の異常な上昇を抱えて

「人工呼吸器、週明けに外すって先生言ってたけど出来るのかな…」

看護師さんと心配ですねと顔を突き合わせているような状態だった。看護師さん達は仮に目の前にある症状に多少の予測がついても「こういう事かも」とは言わないし言えない。特にこの末娘の血圧と静脈圧の高さは主治医も軽く首をかしげていた訳だし。でもこういう時一緒に心配してくれる看護師さんは心強いし嬉しい。そしてそこに加えて

「腸管から出血していた事を考えると、胃に栄養を入れるのは週明けまで様子見」

とも主治医から言われていた。人工呼吸器を外せなければ、口から何も食べられないし、じゃあせめて鼻から胃へ通してある管、Ngチューブと呼ばれる管から栄養を入れて胃に直接何か栄養を入れてあげようにも、一度は胃から出血、続いて腸からも出血、満身創痍の消化器官にはまだ何も入れられないと判断されてこの時の末娘の食事は末梢から入れる点滴のぶどう糖。そうなると人工呼吸器の次に離脱したいNgチューブもどんどん離脱が遅れる。

Ngチューブが外れないと言う事は、口から食事をとれないという事だ。経管栄養。これは、この末娘が生後すぐから1歳6カ月になるまでの1年半、一度経験しているので例えば

「お母さん、経管栄養は持ち帰って、お口でご飯食べるリハビリはお家でやる事にして退院しよう」

と言われても私には出来なくはない、でもやりたいとも言わない。だってアレとても大変だから。3時間とか4時間とか毎に乳児の場合はミルクを、もう少し大きい子なら缶入りの栄養剤を点滴のような器具を鼻から出ている管に接続して胃に直接流し込むのだけれど、私の経験とやり方では1回に1時間くらいかかる上に、この方法だと吐く子はとにかく吐く。それは乳児がミルクを飲んだ後にベロっと口からこぼすいつ乳みたなものではなくて、もう吐しゃ物がマーライオンに酷似した放物線を描く位の勢いで吐く。初めて見た時はかなり驚いた。

何より、この医療的ケアが追加された場合、幼稚園の受け入れが難しくなるのではないかと思っていて、それが一番の心配事だった。末娘の入園を幼稚園に相談した段階では、末娘の医療的ケアは在宅酸素療法だけ。幼稚園に酸素の機械を設置してもらい、園庭で遊ぶ時にはポータブルの酸素を使用する。当時幼稚園には看護師さんがいなかったので先生は

「看護師の採用に向けて求人をかけますね」

そう約束してくれていたが、幼稚園や保育園の看護師は、一般に疾患や障害のある子どものケアを担う専門性を問われるという割には条件が良くなとは聞いていたし、そう簡単に集まるのだろうかと思っていた。それで私はこの子と、そして幼稚園の先生方が集団保育の中に長い酸素用のホースを引きずる娘②の存在と取り扱いに慣れるまでは母子登園をしようと考えていた。幼稚園バスにもボンベの制限時間を考慮すると乗れないから毎日送り迎えをしないといけない訳だし。幼稚園側は、その酸素というものの取り扱いに何か資格が要らないのであれば、いずれ私どもで扱えるか検討するとも言ってくれたけれど、酸素はこの時は術後半年くらいで離脱出来ると、そういう話だったからそこまでは私が頑張ろうと思っていた。でも現状、酸素は

「開窓術の影響で、サチュレーションは80を切る位、これが退院後も続くと思うから、そうなったら酸素はずっと継続してもらって、1年後のカテーテル検査で評価した上で、まだわからへんけどバルーンでその開窓術を閉じる事にするかも」

今心臓に開いている窓を閉じる時まで酸素は1年程度かそれ以上の期間継続かもしれないという話が飛び出した。話が違うやないですかと言いたいところだけれど、「やってみないと分からない」それが手術とその術後。相当に状態が悪かった筈の子が術後物凄く良い立ち上がりを見せる時もあるし、屈強さが自慢だったうちの末娘みたいな子が膠着状態で足踏みする事もある。それはやってみないと分からない。

「…そうですねえ、仕方ないですよね」

そう返事をしたものの、一つだけ、私は主治医に懇願した

「胃管は、Ngチューブだけは何とかしてください、これ離脱していかないと、酸素に加えて胃管つきの子を、幼稚園にさらにごり押しするなんてできません」

幼稚園の入園条件というか許諾されていた事は、在宅酸素のフォローをしながら通常の年少児として通園する事で、そこに追加の医療的ケアが入り込むのは厳しいんです、第一受け入れは表明してくれていても、今現在看護師さんが居る訳ではないあの園では、流石に経管栄養児の受け入れまでは多分厳しい。

そうお願いをした。主治医はそこは大丈夫、ちゃんと人工呼吸器を抜管したら、すぐに嚥下訓練の専門家である言語聴覚士さんをオーダーすると約束してくれた。それで私はやっと幼稚園に電話で現状をお伝えしようと重い腰を上げた。

というのも、この末娘がECMOに繋がれていた術後2日目、末娘の幼稚園の制服の受け渡しがあり、私は幼稚園に出向いていてそこで

「無事、手術を終えました」

そう副園長先生にお伝えするはずだった。予定通り4月の入園式に出席して、あとは医療機器の手配と調整をしながら、新入園児が園生活に慣れた5月ごろから本格的に登園しますと言うはずだった。

しかし、この時の末娘と言えば、補助循環装置ECMOに命を預け、術後弱っている心臓と肺ではこの機械任せの循環がどれだけ持つのかと、この時主治医を務めていた小児心臓外科医の先生が先を言い淀む、そんな状態で一体何をどう説明したらいいのか、副園長先生だってこんな話を聞いても返答に困るだろうと思った私は、受付の事務さんに伝言を頼んだ。

「あの、来年度入園の末娘と言いますが、入園にあたって特別にご配慮をいただいていまして、その、お伝えしていた予定の手術は終わったんですが、術後経過があまり良くないと言うか、予断を許さない状況でして」

『予断を許さない状況でして』

私はこの後の言葉を上手く継ぐことが出来なかった。

うちの子、先が無いかもしれないんです。

それなのにどうして私は新入園児の為の制服なんか買いにきているんでしょうか。アホなんでしょうか。これからこの制服を持って向かう病院ではECMOと人工呼吸器と人工透析機と吸引機とペースメーカー、それから山盛りのシリンジポンプに繋がれた、浮腫んで黄色い顔の子どもが待っているんです。それを私の言語能力では上手く上品にそしてそつのない言葉で表現する事が出来なかった。平たく言うと泣きそうになってそれを堪えていて次の言葉を話すことが出来なくなった。まだ終わりが見えないけれど、この末娘の術後入院前半のハイライトは間違いなくここだと思う。彼岸に近い場所にいた末娘の幼稚園の制服を買いに行った日。

そうしたら、それこそ上の息子の時代のさらに以前から事務方として諸々の事務手続きを一手に担っているクールな事務さんは

「またご連絡します、そう副園長先生にはお伝えしますね。今、とても先を話せる状況にはないのよね?」

そう言った。事情は大体分かりましたから、大丈夫よと。

私はその人にお礼も返答もできないまま、首を縦に振って幼稚園をあとにした、それが2月の末の出来事。そして今、命の危機を一応は脱して小児病棟に移ったのだから、状況はどうあれ幼稚園には連絡をしておかなくてはと思った。もしかしたら、酸素を使用している期間が延びて、更に医療的ケアが増えたりするかもしれませんがと。私は意を決して電話をした、そうしたら

「あっ!お母さん?看護師さんが採用になりましたからね、ええ、入院が伸びたとしてもね、ウン、状況が少し変わってもその時はその時で話し合いましょうね」

副園長先生の言葉があまりに意外で、それを聞いた私の口から辛うじて出てきたのは「は?」「え?」「なに?」という、マナー講師が聞いたら両頬をビンタされそうな聞き返し文言3点だった。私が末娘の入院前の処置と検査と手術に翻弄されている間に末娘の入園予定の幼稚園には看護師が採用になっていて、末娘を迎え撃つ、いや撃たれたら困る、迎える準備が着々と整っていた。

驚いた。

私は、自分の子が『棄民』のような、強くて悲しい響きの子どもだとまでは思っていない、思ってはいないけれどそれに近い物がある立場の子なのではないかと、ずっとそう思っていたから。

最大幸福から外れた少数派。システムの隙間に零れ落ちた子ども。

その子の為に、努力しますとか善処しますとか言われても、それが本当に実現したことは実はあまりない。それが実現している。私はただただ驚いて

「看護師さん、本当に採用してくださったんですか、待っていてくれるんですね」

とぼんやりと答える事しかできずにあとはありがとうございますと10回くらい言って電話を切ったと思う、とにかく退院の目処がついたらまたご連絡差し上げますと。

生きていると良い事もあるんだなあ。あるんだよ末娘。

だから何とか、まずは人工呼吸器を抜管しよう。それを目標にしようと、本人は声が出ないからいつもの

「ハイッ!ワカリマチタ!」

は聞けないけれど、それを宣言して頑張っていた。と言うかこの場合頑張るのは本人と、PICUの看護師さん、そして主治医。その人達が粉骨砕身、末娘の発熱の原因は何なのか、原因が分かるまではひたすらアイスノンで体中を冷やし、痰を吸い上げ、コレなら効くのかと選んだ抗生剤を点滴し、体位交換に清拭と洗髪をして清潔を保っていくれた。人工呼吸器のような

「抜いたら大問題」

になる医療機器を携えている間は、母と言えども、この子の事は姿勢1つ変えてやることが出来ない。それで私はひたすら持参した絵本を読み、熱で目が虚ろになっている末娘の背中をさすった

頑張れ、全部が終ったら幼稚園が待ってるよ。

でも、末娘の発熱は治まる事を知らず、散々検査に検査を重ねても、原因を突き止められないまま体温は大体39度、血圧は上が下手をすると160、落ち着いているなと思っても130。これは小児の数値じゃない。とにかく数値が高くて安定しない、そのくせSpO2は75、低い。そして今日、当直の先生は私にこう言った。

「明日の人工呼吸器抜管は見合わせます。ちょっと末娘ちゃんの血圧や静脈圧が高すぎる。これは本人がまだ呼吸器の抜管は『しんどい』と言っているという事だと思います、ここは慎重に安全策を取りたいと思いますから」

人工呼吸器の離脱が延期になった。

そんな予感はしていた。

末娘、頑張れ、幼稚園はもう準備万端、待ってくれているんだから。

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