服は"わたし"の取扱説明書(トリセツ)
彼女はパリのマドモワゼル、歩くのはニューヨーク、5番街、見惚れる地下鉄四谷駅。
さしずめ時を超える淑女か、彼女のオーラに圧倒される。ラッシュアワー誰が決めたわけでもなく、川のように人の流れは止まらない。
その流れに逆らうように、いや、それはモーセの出エジプトか。眼前で川が割れるのをみたわたくしは、抗えるはずもなく道を開けるしかなかった。少しでもの抵抗でじっと顔を見つめる「わたくしは負けたわけじゃない。レディーファーストだ。譲ったのだ。」とでも主張するかのごとく。
かのように、無機質なロボットと化した通勤者をなぎ倒していくのだから、どんなに美人なのかと覗き込む。「そうでもない」それが私がいだいた感想だ。でも、オーラがある。魅力的なのだ。夏らしい大きめの麦わら帽に、白いブラウス紺地の水玉スカート。闊歩する彼女の足を止められないその存在感はいわゆるオーラをまとっているのだ。
ここは、「虚構の街」銀座でもなく、「無理してお洒落している街」表参道でもなく、「スカした街」代官山でもない。
地下鉄四谷駅なのだ。
この場所で、あの服装、それは悪目立ちしていなく、ただただ綺麗で、存在感がある。
彼女はそう、服に着られていない。彼女が服を着ているのだ。
自分が納得できうる服を着て家を出る。そうして働き遊び、日々の暮らしを送る。その積み重ねが彼女に自信というオーラをまとわせている。
確かに「わたし」とは他者がいてこその「わたし」という存在がある。しかし、そこに絶対的な根拠というものを存在せしむればその「わたし」は他を圧倒する。その現象を咀嚼しながら私は今日もオフィスへの道を歩く。
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