「This Is Me」とピッコロ大魔王を生み出したもの

映画『グレイテスト・ショーマン』の「This Is Me」や、『アナと雪の女王』の「Let It Go~ありのままで~」が現代で大きな共感を呼ぶのは、普段の生活の中ではどうしても他人の目や声を恐れて、自分らしくいることができない人が多いからだと思う。

その反動からか、ネットの中では匿名でありのままの感情を吐き出す人も多く、この瞬間もどこかで誰かが傷ついている。一般人でもSNSでそれぞれの痛みを感じることはあるけれど、その比じゃないくらい有名人に厳しい世の中であることは間違いない。

以前、観に行ったアイスショーでプロスケーターの安藤美姫さんが「This Is Me」のプログラムを演じ、似合っていて素敵だなと思ったことがあった。でも、その歌詞がピッタリだと感じたこと、他の有名なスケーターが滑ってもおそらく同じ感想になるかもしれないということが切なくもあった。

YouTubeでシネマトゥデイの「This Is Me」ワークショップセッションの様子という動画を見た時には心が震えたし、この時代に生きる全ての有名人の魂の叫びなんじゃないかと感じた。一般人の私たちは今こそ一度、真剣に考えてみる必要があると思う。

勇気がある
傷もある
ありのままでいる
これが私

有名人の誰もがこんなふうに受け入れて強くいられるわけではないし、それを求めるのも賞賛するのも違う気がして、もっと根本的に変えないといけないと思うけれど、人の心を変えるのは何より難しい。それでも言葉だけなら、言わないという選択肢があり今すぐに誰でも変えることができる。

noteでいつも素敵な文章を書かれている、漫画『ちはやふる』の作者、末次由起さんの「そこまで思ってないなら、なにも言うな」を読んで、本当にその通りだと思った。昨年の記事ですが、今ぜひ読んでください。

「『この人にいなくなってほしい』
そこまで思ってないのなら、何も言うな」

全文引用したいくらい共感したのと同時に、現実には「この人にいなくなってほしい」とそこまで思っているから、何かを言っている人たちも多い気がして考え込んでしまった。その逆もあって、親切なアドバイスのつもりで正しいことを言っている人もいる。

私の好きな宇野昌磨選手が、「背が低いから気がつかれやすい。『宇野昌磨だ、ちっさ』とよく言われる」と話していたことがある。通りすがりの悪意もないであろうその一言を投げかけることも、そこまで思ってないなら何も言うな案件ではあるけれど…

宇野選手が新幹線ギリギリの時間まで出かけようとせずに、家でのんびりくつろぐ様子を見たファンが、周囲のサポートしてくれる人を困らせないようにとか、余裕を持って出発を…と公開の場で好意的に意見することは、特段問題はないのかもしれない。

ただ、気づかれるのが100人中1人だったとしても、かけられる言葉が応援とは限らない有名人が駅のホームで待っていたいと思うだろうか。一般人の常識でアドバイスできることなんて何もないような気がする。

なら見せなければいいとか、見なければいいという水掛け論をしたいわけじゃない。私たちが発する言葉は一般人のたった一言だったとしても、投げかけられる有名人にとっては溢れそうなコップの最後の一滴かもしれないということ、どんな言葉にもその責任があることを自覚して、私は見たい。

この一例は些細なことのようだけれど、noteで西野亮廣さんの「暴力に変わる善意」や「業界もお店も『クレーマー化したコアファン』に大体潰される」という記事を読んで、身につまされる気持ちになったので流さずに考えておきたいと思った。

宇野選手が応援しているスマブラのShogunさんの雑談配信を私は時々聞いていて、あれは確かメンタリストのDaiGoさんが失言やその後の態度を叩かれていた時だった。有名人は普段からいろいろ言われて擦れてしまう部分があるんじゃないか、みたいな話をShogunさんがされていて、そういう見方ができるのは優しいなと思ったことがある。

同じ配信の別の話題で、Shogunさんがこれは僕の格になる考えだから覚えておいてほしいというようなことを軽い感じで話された後、宇野選手が「覚えておきます」とコメントしていた。一般人の心ない批判やファンの心ある意見よりも、その時に自分で見つけて好きになった人の言葉をどうか聞いていてほしいと心から思った瞬間だった。

どんな意見も好き嫌いを表明することも言論の自由なのかもしれない。それを可視化する場所を作った人に罪はないし、そこで吐き出している人にも相当なストレスがあり、発散することで自分を癒していると思う。

ただYouTubeのとある対談で、華原朋美さんがひろゆき氏にいかに辛かったか、いかに愛するようになったか、乗り越えた人の強さとおおらかさで切々と語っているのを見たら、本当にやりきれない気持ちになって、このままの世の中でいいとは思えなかった。

(ネタバレになってしまうのだけど…)
漫画『ドラゴンボール』の中に、ナメック星人の神様が登場する。神の後継者になる時、心の奥底にほんのわずかな悪が潜んでいて、苦しい修業の末その悪を追い出すことができたものの、そのわずかな悪がピッコロ大魔王となり人々を苦しめてしまった。

本来ナメック星人はとても穏やかな種族で、ピッコロ大魔王というのは神になる前に出会った地球人たちの邪悪さに影響され生み出されてしまったものだという。

私の想像だけれど、その容姿にひどい言葉や石や銃弾を投げ続けられたであろう小さなピッコロは、言い返したい仕返ししたいという気持ちをぐっと飲み込んで、大人になっても神様になる条件でなければ自分に向けられた悪意を吐き出さなかったと思う。

嫌うことも不平や不満もあっていい。追い出して神様になる必要はない、私たちは抱えて生きる人間でいい。吐き出したものが誰かを傷つけるピッコロ大魔王になったことを苦しみ続ける加害者にはなりたくない。

勇気がある
傷もある
ありのままでいる
吐き出さない
これが私

公開で自由に意見する人ほど、有名人が自由に発言することに厳しい。元NEWSの手越くんが事務所をやめた後、本を出版したあたりのタイミングで、元ファンだという人の嘆きのツイートをたくさん目にした。

イッテQ!でニコニコと座っているだけでほとんど話せなかった頃から手越くんを見ていたけれど、用意された台本のキャラが自然と染みつくくらい素直に努力したんじゃないかと感じたし、楽しんで見ていた視聴者みんなで作り出した存在だった気もする。

自分の理想の存在ではなくなった時、応援していた人を否定し、応援してきた自分を後悔し、今もファンでいる人に水を差して、吐き出すことに何の意味があるだろう。その人はスッキリしたことで新しい生活を善良な人として暮らしているのだとしても、残してきた言葉は誰かを傷つけ続けている。

公開で言葉を書いている以上、ブログでもツイートでも、YouTubeのチャットでもあらゆる場所のコメントでも、屋根の上から叫んでいるのと同じことだと思っている。部屋で独り言を発しているわけでも、公園のベンチでお喋りしているわけでもない。

実際に屋根の上で叫ぶことができないのなら何も言わないほうがいいんだと思う。屋根の上で叫びたいほどの主張や愛や歓喜の瞬間のために、公開の場があってほしい。

自分の応援している人にも、その家族や親しい関係の人にも、ライバルのような存在の人にも、誰に対しても公開で意見を押しつけてほしくないと願うと、風紀委員だとかお花畑だと言われる風潮があることをフィギュアスケートのファンになって知った。

私は独りが好きだから何の委員にもなりたくないし、心の中はお花畑どころか、どんな人の意見もたとえ悪意でも一度はその身になって想像しようとするたびに、ここはドラゴンボールで地球にやってきた敵が街を破壊した後の荒野みたいだと思っている。

(…頭の中で中島みゆきさんの『荒野より』が流れ始めた。どんな歌の「君」も私の中では宇野昌磨選手に変換される。きっと誰もが誰かのそういう存在なんだ)

本当は自分の主張を書く時に、誰の名前も出したくないし、どんな例えも借りたくない。だけど自分の言葉だけで想いを形にする力が今の私にはなくて、ドラゴンボールの精神と時の部屋みたいに一日で一年ぶん考えることができたらいいのに…と思った。

(中島みゆきさんの『銀の龍の背に乗って』のように「僕はこの非力を嘆いている」。中島みゆきさんの歌で一番好き。この歌が響かない時には心のケアをしてほしい…)

もしもドラゴンボールを集めて願いが叶うなら、この世から愛以外の言葉をなくしたい。そんな奇跡は起きないけれど、荒野にも一輪の花が咲くと信じているし、孫悟空と生まれ変わったピッコロのように最大の敵が最高の仲間になる日が来ると信じている。

(中島みゆきさんの『愛だけを残せ』の歌詞ような、名さえも残さず 生命の証に 愛だけを残す、そんな人に私はなりたい)

勇気がある
傷もある
ありのままでいる
愛だけを残す
これが私

一般人である私たちが変化する前のサイヤ人だとしたら、有名人は穏やかな心を持ちながら怒りによって目覚めたスーパーサイヤ人なのかもしれないと、映画『グレイテスト・ショーマン』で「This Is Me」を高らかに歌い踊り、輝く人たちを見て感じた。

私たちも有名人になろうというんじゃない。サイヤ人に3段階の成長があるように、誰かに意見する時間やエネルギーを自分の修業のために使えばいつか、ありのままで、吐き出さず、愛だけを残す人になれる。

他人に強い関心を持ち、痛みを知っているからこそ言葉にしてしまう人はきっと、本当は優しい。そのまま吐き出すよりも自分の中で愛の形に変えて表現したほうがずっと癒される。そうありたいと努めれば人の心は変わることができるし、今すぐにでも言葉は変えることができる。いつかはみんないなくなる世の中で、残したいものは何ですか。