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凍蝶

 東京の人工的な騒音とは違った、自然の騒音がする。やはり夏はどこもかしこもうるさいのだろうか。蝉の鳴き声が執拗に鼓膜を揺らすせいで、腹が立ってきた。だが、この騒音に腹をたて小言を漏らしてもどうもならないことぐらいはわかっている。 
 東京とここでは、夏の気温差は五度前後だが人がおらずひらけている土地で空気がからっとしており人口密度が高く湿度が高い東京と比べれば十度ほど気温差はありそうな気がした。

 散策を初めたが住宅街を抜けると畑や田んぼ、二百メートルおきに古びた家があるだけだった。対して変わらない景色を十数分突き進むと少し人工物が多い通りが見えてきた。
 適当に視界に入った本屋に入ると、そこは中古本のみ取り扱う店らしく殆どの本は色褪せている。なかには文章に波線が引かれていたりするものもあった。

何冊か立ち読みをしふと空を見ると、夕日で橙色に染まっておりそろそろ家に帰ろうかと思い、手にしていた本をレジに持っていく。

 本屋を後にして先ほどきた道を戻る。階段を登り鍵を開け殺風景な部屋を見つめ、今日からここが私の家なのだと熟考する。家具はベットと腰の高さほどの棚しか持って来なかった。そのため、フローリングに直に座り先ほど買った本を開く。


 数時間たったころ、スマホがゔーゔーと鳴き声をあげ本の世界から現実に引き戻される。画面を見ると東京の友人からメッセージが届いていた。適当に返信をする。スマホの充電が残り僅かだったため、充電器をさし食事を与える。自分も食事をしようと立ち上がりはっとした。ここには今日、越してきたばかりで食材は何もないのだ。カップラーメンくらい買えばよかった、と後悔しながらスマホを手に取りマップを開く。今の時刻は二十二時半、スーパーはやっているだろうか。マップを見てみると、コンビニエンスストアを発見した。どうやらさっきの道の、四つめの十字路を左に曲がったところにあったのだ。

 必要最低限のものだけ持ち家を出る。パーカーのポケットから少し角が潰れた箱を取り出しその中から一本抜き出し口に咥える。手で囲いライターを点火する。口に咥えたそれの先端に火を近づけ軽く吸い込むとぼうっと火種ができ先端が紅く灯った。一連の儀式とも呼べる行為を終え箱とライターをポケットに戻し代わりにイヤフォンとスマホを取り出し地下アイドルの配信を聴く。このアイドルは『青いハーネス』といい東京の渋谷を拠点に活動しているが最近は渋谷郊外からも人気を得てきた。そんな中センターの鈴代イナが無期限の活動休止になった。ファンはメンバーとのなかが悪くなったとか鬱になったとか色々な噂を上げてるがみんな何も本当に鈴代のことをわかっていないな、と思索しながら五分ほど歩いていると街灯より強い人工的な光が目に入った。顔をあげると東京では見たことないローカルなコンビニがあった。

 カゴを手にとり物色する。噂できいたことがある炭酸飲料があり行く機会があれば飲んでみたいと考えていたのを思い出した。

 なぜか東京のものより全て美味しく見え結局晩御飯を買いに来ただけなのに十五分もうろついていた。

 レジを済ませ外に出ると生ぬるい風が脇を通りすぎていった。


 おかしい、、コンビニを出てからかれこれ十五分ほど歩いているのに新居のアパートが一向に見えてこない。マップを開こうとすると画面が暗くなった。充電が切れた。丸一日使い充電は先ほどの少ししかしていなかったためだ。どうやら私は何も知らない土地の闇に放り込まれてしまったらしい。

 ふらふらと歩きとりあえずコンビニに戻ろうとしたが一向にあの人工的な眩い光は見えてこない。

 数分足の赴くままに歩いていると開けた場所が見えた。アパートの駐車場かと思ったが木が生えている。たしか新居の駐車場はただのコンクリートを打ちつけただけだ。木なんか生えていなかった気がする。そう思い目を凝らすとそれは簡素な公園だった。暗がりのなか佇む公園は少し不気味だった。これが日が昇ると子供たちの楽園になるとは到底思えない。

 座るとこがないかとうろうろしていると暗がりの中にベンチが見えた。座りこむと足の疲れがどっと溢れ出し反射的にため息が出た。

 数分どうしようか考えていると微睡の中に惹き込まれそうになっていた。するとキーと金属が擦れる音がして手放しそうになっていた意識をすんでのところで掴む。誰かいるのかと目を凝らしあたりを見回すとブランコに人影が見えた。

 近づいていくと制服姿の少年がスマホを弄っていた。この少年に聞けばうちに帰れるかもしれないと思いねえ、と声を掛ける。

 少年の肩が猫みたいにびくついた。暗くてあまりわからないが昼間、本屋の近くで見た制服に似ている気がする。

「ねえ、ちょっと時間ある?」

少年が怪訝そうな顔を向ける。

「は、?あ、ありますけど、、」

やや低めの閑やかな声だった。

「じゃあさ、ちょっと案内してくんないかな?」

「えーと、、どこに案内すれば良いんですか」

「アパート。コーポミッキーっていうところ」

「ちょっと待ってください」

少年がスマホにコーポミッキー、と打ち込む。

「ここですか?」

スマホをぐいと見せてきた。

「うん、たぶんそう」

 少年が立ち上がり歩きだす。私も数歩後ろをついていく。少年が公園の入り口にある自転車に鍵を掛ける。

「自転車のらなくていいの?」

「チャリと一緒に歩くの難しくないですか、」

「そうだ。後ろ乗せてよ」



 自転車が生ぬるい風をきる。

「君、名前は?」

「コサカ アオイです」

「小さい坂?」

「いや、狐に坂です」

「変わってるね、下の名前は?」

「紺碧のぺきです。よくみどりって読まれます」

「んーと、上が王と白で下が右のやつ?」

「下は石です」

「ごめん、漢字強くないんだ」

「大丈夫です。貴方はなんですか」

「名前?ミノセ レイだよ。干支の巳にカタカナのノ、セは普通の瀬。レイは王に令和の令」

「巳ノ瀬さん、」

「そうえば敬語外してよ、堅苦しいの苦手なんだ」

「は、、わかった」

「呼び方も玲でいいよ、そうえば碧くんって幾つなの?」

「じゅーろく」

「高校一年生?」

「俺、早生まれだから。高二」

「早生まれなんだ。高二なんて青春真っ只中だね。がんばれ」

「なんだそれ」

碧は辟易とした様子で鼻で笑った。

「玲さんは幾つなの」

「私は二十歳って言うのが世間体」

「世間体?実年齢は?」

「さあね、わかんない」

 数分他愛のない話を続けているとアパートらしきものが見えた。

 少しの沈黙があり考えた。

「碧くん、うちよって行きなよ」

「え、なんで?」

「お礼っていったらあれだけど飲み物くらいださせて」



 先ほどコンビニで買ってきたうどんを段ボールの上に置く。

「ご飯食べた?」

「食べた。食べないと親が怒るから」

「じゃあ一回家帰って出てきたってこと?」

「そう。親今日夜勤だから」

「不良だね」

碧を冗談めかしく睨んで見せると碧の目が細くなり口元が緩んだ。

「飲み物さっき買った炭酸しかないんだけどいい?あ、あとコーヒー」

「コーヒーで」

マグカップをどの段ボールに入れたか忘れてしまった。手当たり次第開けて見つけ出したところで碧があのさ、と呟いた。

「うん、どうかした?」

「玲さんって引っ越してきたの?」

「お、勘がいいね。今日来たの」

「勘も何もこの段ボール達と部屋の殺風景らしさを見たら誰でもわかると思うけど」

碧が辺りを見回しながら言った。



 うどんを食べ終えると碧に連絡先を交換しないかと言われたためスマホをポケットから取り出す。充電がないことを思い出し充電器をスマホに差し込む。

 数分会話をして途切れたところでスマホを見ると4%充電済みと画面に表示されておりメッセージアプリを開く。碧が QRコードを差し出してきたのでそれを読み取ると『こさか』とネーミングされたアカウントが表示される。念のためこれ?と聞き承認を得てから追加ボタンをタップする。トークルームを開き私の好きな漫画のスタンプを送ると同じスタンプが返された。

「碧くん、この漫画知ってるんだ。あんまり私の周りに知ってる人いないから嬉しい」

碧が懐っこい表情を浮かべながら首を縦に振った。

 コーヒーが無くなったため碧のマグも手に取り台所に向かう。お湯をもう一度沸かし直す。

 マグを二つ持ち台所を離れると碧が座ったままベッドに背を預け寝ていた。段ボールからタオルケットを取り出し碧にかける。

 マグを一つ段ボールの上に置きもう一つを両手で囲むようにしてもち碧の正面に座る。コーヒーの温もりを感じながら碧の寝顔を眺める。二重幅が広く若干吊り気味な目でツンとたった鼻に尖った輪郭、サラサラな髪。公園で見た時も思ったがこうやって灯りの下でしっかりと見るとより顔立ちの良さがわかり学校ではモテる部類に入るのではないかと推考する。うちにきたと言うことは恋人関係の人間はいないのだろうか。

 しっかりコーヒーを二杯飲み切り脱衣所に向かう。

 風呂を上がりドライヤーをする。脱衣所のドアは閉めたが碧が起きないだろうか。

 だがそんな心配も裏腹に居間に戻ると碧はすやすやと寝ていた。碧を起こさないようにベッドに入る。



 目が覚めると知らない風景が目に入り飛び起きる。タオルケットを握りながらあたりを見回して数秒虚空を見つめていると私は昨日引っ越したのだと思い出した。確かタオルケットは碧にかけて寝たはずだが碧がかけてくれたのだろうか、私にタオルケットが掛けられている。あ、そうだ、碧。碧はどこだ。帰ったのだろうか。そう考えていると台所があるスペースの角から碧がマグを二つ持って現れた。目が合うと起きたの、おはようと碧が微笑んだ。

 あち、と声を漏らしながらコーヒーを啜る。苦味とカフェインが体に染みぼんやりしていた意識がじわじわと濃くなったのを感じた。

 カップを台所に置き荷解きをしているとスマホを見てた碧が手伝うよと言ってきた。

「じゃあお願いしようかな。そこの段ボール、お皿入ってるから台所の上の棚に入れといてくれる?」

わかったと告げられ台所に向かって行った。

 

 一通り終わりベランダを開け外気に触れる。サンダルを買っていなくて裸足で外に出ると日光の暖かさが肩を抱いた。

 煙草を吸っていると碧もベランダに出てきた。ひと口ちょうだい、と言われたため吸い口を碧の口元に寄せる。すぅ、と微かに呼吸音がし、ため息にも似た吐息が碧の口元から煙と共に漏れ出ていった。その一連の動作は随分と高校生に似つかない仕草だった。

「学校は?」

ニコチンが体内を出入りして頭にもやがかかっていた。

「今日は休み。開校記念日っていうの?あのなんか学校ができた日」

朝焼けを見ていた碧の視線がずれ私に漂着する。視線は私を捉えているはずなのに私を貫いてどこか遠くを見ている気がした。碧は何を見ているのだろうと推察しながら碧の瞳を見つめているとなに、と揶揄うように呟いた。それが、なんだか嬉しくてなんでもないよ、と答えた。



 「また後でね」

碧が自転車のペダルに足をのせ進み出す。姿が見えなくなるまで碧の背中を眺めていた。

 数時間後、スマホが鳴り画面を見ると碧からもう着く、とメッセージが来ていた。

 メイク道具を軽く片付けベットの上に投げ捨てられている薄いパーカーを取ろうとしたがいらないな、と思い足元にあるバッグを掴み外に出ると日光が眼底を突き刺した。

 曲がり角から碧が出てきた。手を振ると肩の高さで恥ずかしそうにしつつ返してくれた。

 碧が私の歩幅に合わせて隣を歩く。

「自転車じゃないんだね」

「だって先生に二人乗り見つかったら怒られるから」

碧が悪戯が見つかった子供みたいに顔を顰めた。

「案内って何すればいいの、行きたいとこある?」

「んー、とりあえず家電を見たい。電子レンジと冷蔵庫が欲しい」

「家電屋なんかこの町にないよ。電車乗るけど大丈夫?」

「じゃあ先にここの案内をお願いしようかな」

「わかった」

 十数分歩くと昨日行った本屋がある通りにでた。

「この国道にだいたいお店が密集してる」

「碧くんのおすすめのお店はある?」

「ないよ、こんなど田舎に」

「へえー、でも東京はいろんなとこにお店が散らばっているからここの一箇所で事が済むっていうのはいいところだね」

碧がぼそぼそ何か文句らしきものを呟いているのを聞くふりして、辺りを見回すと東京の景色と打って変わった目新しい風景に心躍った。

 碧にねえ、と声をかけられ話を聞いていないとバレたのだろうかと思い聞いてるよ、と告げると

「スーパー行かなくていいの」

と言われ人拍遅れて思考が動いた。そうだ、食材も何もないのだ。

「あ、うん、いく。あと百均ある?」

「スーパーの隣にあったと思う」

 スーパーの中は冷房が効きすぎて、若干肌寒かった。冷蔵庫はまだないので生物は買わない。今日のご飯もまた弁当に縋るしかなさそうだ。昨日はうどんを食べた。今日は何にしようかと弁当コーナーをうろつく。他にも日持ちしそうな春雨などのインスタント食品や栄養補助食をカゴに入れてると、碧がもつよと手を出してきたのでありがとと返しカゴを渡す。

 カードで支払いをしていると、碧がテキパキと袋詰めをしといてくれていた。

 スーパーを後にして百均に向かう最中も、碧は袋を持ってくれていた。顔が良くて気遣いもできる碧に本当に恋人はいないのかと気になり、訪ねてみると、いたことは一度もないと返され碧は案外モテていないのかそれとも高嶺の花の存在なのだろうか。



 家に帰りキッチンの横の棚に常温保存の食材を入れていく。

一息ついた辺りで碧がじゃあ、俺帰るね、と玄関に向かって行く。そして途中まで送るよ、と言い碧の後ろをついて行った。

 寒い地域とはいえ夏はどこも暑くなる。八月が終わろうとしているのに、アスファルトは昼間の熱を蓄えてジリジリと熱を発していた。そんな気温とは関係なしに、碧の横顔は清々しい。夏が似合わない男だなと思いながら、碧の隣を歩く。曲がり角に差し掛かろうとした時、碧が立ち止まりこちらを見た。

「ここまででいいよ、曲がったりしたら怜さん、またうちに帰れなくなっちゃうでしょ」

そうかもね、と笑う。じゃあまたね、とお互い手を振り合い碧に背を向け、来た道を戻る。

 家に帰り、人がいなくなったせいか、途端に疲労感や眠気、だるさが体の中心から全身に広がった。睡眠を取ろうか迷ったが、頭皮や背中が汗ばんで、ベタベタしている。だが風呂に入る気にはなれない。シャワーの最中は、汗が流れていき清清するのだろうが、問題は入った後だ。多分これは女子特有のものなのだろう。髪を乾かすのが、人生の面倒くさいことトップ5に入るくらい面倒臭い。そんな自分を鼓舞し、脱衣所で衣服を脱ぐ。

 髪が濡れていて、頬や首元に張り付いている。そんなことはどうでもいいくらい、眠気と疲労感が凄まじい。

 お腹が空きお湯を沸かす。簡易の机として使っている段ボールに、インスタントの春雨を置きお湯を注ぐ。三分間のタイマーをスマホでセットする。ベッドに背を預け、膝を三角にして昨日の碧と同じ体制になる。

 タイマーが鳴っている。だがそれを気にせず、私の意識は薄れていった。

 体が痛い。そんなことを考え上半身を起こすと、段ボールの上で水分を含んで伸び切っている春雨が目に入り、先ほどの自分に失望する。

 カーテンがエアコンで揺れている。その隙間から何もかも吸い込んでしまいそうな暗闇が見え、スマホで時刻を確認すると、夜中の一時を過ぎたところだった。碧がうちをでたのが確か五時半だった。それから風呂に入って、お湯を沸かしたりしていたのだから、きっと七時ごろあたりに睡魔に襲われたのだろう。

 春雨のカップに手を当てると、生温い温度が手に伝わる。春雨をカップから耐熱の容器に移し替え温め直そうとレンジに向かおうとして、思い出した。ここは殺風景のベッドと段ボールしかない部屋だ。電子レンジなんてものはないのだ。

 溜め息をつき春雨を一口食べる。ぬるい。だがこれはこれで違う食べ物だと思えば、食べれなくない。

 半分ほど食べたあたりで、腹が膨れてきた。水分を含んで含んでブヨブヨになったこいつは多分、通常の五倍くらいにはなっているだろう。

 ゴミ箱に春雨を滑り落とす。ガサガサとビニールの擦れる音がした。

 スマホを取り出し通販サイトを開き、ローテーブルと座椅子をチェックする。いつまでも段ボール生活はいやだし、流石にフローリングに直に座るのは、尻の骨が当たって痛い。

 適当に無難な白い家具を発注し、脱衣所に向かい生乾きの髪を乾かす。

 ドライヤーをとめ、洗い物を済ませ電気を消す。ベッドに身を投げ数分目を瞑っていると、意識が闇の中に吸い込まれていった。

 


 田舎だからか東京とは違って、発注したローテーブルと座椅子が届くのに、二週間弱かかった。二週間弱は短いようで長く、殺風景な部屋に小さな冷蔵庫と電子レンジも追加された。ローテーブルを組み立ているとチャイムがなり、何だろうかと思い棚の上にあるマスクをつけ玄関を開けると、碧が小さな衰弱しきった仔猫を抱えて、立っていた。は、とここ最近一番の馬鹿らしい声が、口から自然に漏れ出て、碧が入っていい?あとタオルちょうだいと言う。状況が理解できないまま、碧が器用に片手で猫を抱きながら、靴を脱ぐ。

「碧くん、どうしたのそのこ」

リビングへ向かう碧の背中に問うと、拾ったんだ、昨日あそこの公園にいた、と言う。

 あそこの公園とは、初めて会った場所だろうか。そんなことを考えつつ、脱衣所に向かいタオルを二枚とり、一枚をぬるま湯で濡らす。

 碧が仔猫を濡らしたタオルで拭く。まだ目も開いていない仔猫は、にいにいとか細い声をあげ、碧のされるがままになっている。よく見ると肋や背骨が浮き出ている。碧に買い物に行ってくると告げ、最低限の物を持ち外に出る。

 帰って来ると、仔猫は碧の腕の中ですやすやと寝ていた。引っ越して来た際に使った衣装ケースに、タオルを敷いてその上に膝掛けを畳んだ物を置く。簡易のベッドのつもりだった。碧が腕の中の仔猫を自分の方に抱き寄せ、起こさぬようにそっと簡易のベッドに置く。碧が数十秒仔猫を凝視し、仔猫が起きないと確信したのかふー、と安堵の息を漏らし、何買いに行ってきたのと聞かれたためビニール袋の中身を見せる。

 十数分経った辺りで、仔猫がまたにいにいと声をあげた。先ほど買ってきた仔猫用のミルクを小さくかつ浅い皿に移し、衣装ケースの中に置く。だが仔猫はただそれを目の前にしても、ただにいにいと繰り返し鳴くばかりだった。

 皿を回収して棚からストローを取り出す。衣装ケースの中から仔猫を片手で抱き寄せ、ストローでミルクを軽く吸い上げ、指で上の方を抑える。そしてそれを仔猫の口元に寄せると、少しずつ飲み出した。この作業を数回繰り返していると、碧が猫飼ってたことあるの?ときいてきた。

「昔ね。うちのママは猫とか動物が、好きじゃなかったから部屋でこっそり飼ってた。私が学校行ってる間は、おばあちゃんが面倒を見てたんだ。その時に色々教えて貰ったりしてたの。でも二ヶ月も持たないで、死んじゃったんだ。死因はわかんない。おばあちゃんが、仔猫は本当に何が起こるかわからないから、仕方ないことだって言ってた」  

碧が憫察したように猫を眺め病院、と呟きそうだねと相槌を打った。

 猫を病院に連れていくと、栄養失調と診断され栄養剤を入れ、今日は大事を持って入院することになった。

 帰る最中碧と猫の名前について、話し合った。里親という手もあるが、世話をしていると小学生の時に出会った仔猫を思い出され、情が移ってしまったのだ。

 話し合った結果名前は、りとになった。昔の猫の呼び名の狸奴からとった。狸より猫の方が、雅やかという意味らしい。


 

 暑い夏が終わりようやく、秋が来た。木々は鮮やかく色づき、無機質な生活に色を与えた。

 りとはうちに来た時はとても汚れてて、大きさはスマホと同じくらいだったのに、もうアイパッドサイズだ。退院した次の日に洗面所で洗うと、茶色い泡がたくさん出た。日にちを分けて何度も洗うと、薄汚れていた毛が綺麗になり、今は艶やかな濡れ羽色をしている。そして最近、横に大きくなってきている気がするが、これはみないことにしとく。

 ピンポーンとチャイムがなり、玄関を開けると碧がおはよと言った。碧はあの公園で初めて会った日から、一週間に二度ほど、うちに遊びに来たりしていた。私自身も困ることは特になく、殺風景の部屋に人が居るというだけで安心感か多幸感かわからないが、ほんの少しテンションが上がる。

 冷蔵庫から飲料水を取り出しコップに注いでいると、りとと遊んでいた碧がキッチンにやってきた。水いる?と聞くとうん、と応答した。コップをもう一つ棚から出し水を注いでいると碧が、玲さんの家ってどんな感じだったのと聞いてきた。

 コップをローテーブルに置き、ベッドに座った。碧は座椅子に座っていた。ここがいつもの私達の定位置に成りつつあった。

「私の家?家庭環境ってことかな?」

碧がうなづき無理に話さなくてもいいんだけどさ、ちょっと気になったんだ、と言った。

「うちは、一人っ子。お父さんは顔がカッコよくて身長もそれなりにあってイケメンだったから参観日にお父さんが来てくれるのが嬉しかった。けどお父さんお酒飲んだら人が変わったようになって、ままに暴言とか暴力ばっかりしてて、記憶が曖昧なんだけど小四の冬、いつもよりお酒の量が多くて、ままの胸ぐら掴んで頭たくさん叩いてた。わたしもうママが死んじゃうって思って、止めに入ったんだけどお父さんに蹴り飛ばされてテレビ台の角に頭ぶつけて血出ちゃって、意識失っちゃったんだよね。それでママはやばいって思って離婚した。そのあとおばあちゃんちに引っ越したんだよね。おじいちゃんは私が生まれる前に亡くなってる。おばあちゃんは何でも知ってて、憧れだった。けどママは私がおばあちゃんに懐いてるのをあんまりよく思ってなくて、離婚しておばあちゃんと暮らすようになってから、私にあたりが強くなった」

いい思い出はある?と碧が呟いた。

「もちろん何個かあるよ。お酒飲んでないお父さんは、普通のお父さんで旅行もしたり、いっぱい遊んでくれてたからね」

碧がそっかーと曖昧な相槌をうった。なんで唐突に家庭環境を聞いてきたのか疑問に思い、碧にどうしたの?と問うと

「もしかしたら、、、うち離婚するかもしれない。ちゃんと親から聞いたわけじゃないんだけどさ、なんか、うん、雰囲気って言うの?」

碧がりとと遊んでいた猫じゃらしの手を止める。一度視線があったが、すぐに逸らされてしまった。続けて、と言うと碧がそろそろと緩くうなづいた。

「うちは玲さんちみたいな、家庭内暴力とかはないけど母さんと父さん、しょっちゅう喧嘩してるんだよ、昔はなかった、いやあったのかもしれないけど、俺の前ではしてなかった。でも最近父さんの帰りが遅くなったりして、母さんが小さい事でもすぐ泣くんだよ。ほんと子供みたいにさ。母親が泣いてる姿なんか子供は見たくないじゃん。俺が部屋に戻ろうとすると、母さん、私のこと碧も捨てるの?みたいなヒステリック起こすんだ」

碧が目を伏せ顔の前に垂れた髪を耳に掛けた。兄弟はいる?と問う。

「いる。十九歳の兄。ランって言うの。藍色の藍。学年は二つ違いだけど俺、早生まれだから年齢は三つ違い。今は短大行きながらバイトしてる。母さんの情緒がおかしくなりだした頃から、友達の家に泊まったりバイトとか理由をつけて、夜中に帰ってきてる。家に居てもほとんど部屋から出てこない。いないみたいなもんだよ」

碧がりとを抱き寄せ、おでこを撫でまわすとりとがゴロゴロと喉を鳴らしだした。

「もしだよ、もし本当に離婚するとなったら、碧くんはどっちについてくの?」

「父さんに決まってる。あんなヒステリックババアと一緒なんて嫌だよ。藍はどっちにもついて行かないんじゃないかな、多分一人暮らし、それか彼女と同棲でもするんじゃない?あー俺も一人暮らししようかな。父さん無駄に金だけあるんだよなあ。家族にあんまり使わないけど。高校卒業くらいまでなら、家賃とか生活費出してくれそう」

「お父さんは好き?」

「好きか嫌いかって言われたら嫌い。普段何もしないくせに、たまに父親面してくるのが腹立つ。けどその上っ面だけの父親を、俺は馬鹿だから毎回信じちゃうんだよね。それで最終的にただの表面上のだけの顔って、気づいて裏切られた気分になる。死にたくなるよ。でもそういう日は母さんの情緒もおかしくなってるから、自分に構ってる暇はない。親子揃って父親に踊らされて、馬鹿なんだなあ」

「私もそうだったのかもしれない。お酒を飲んでないお父さんが、本当に好きだった。たまに禁酒するって言うんだよね。そしたらお父さん、もう普通になったんだって思って、嬉しくてたまらなかった。けど夜になったら怒号が聞こえてきて、布団かぶって耐える時間が苦痛だった。ある日、夜中トイレに起きたら、リビングの電気がついてて、ままがソファで寝ちゃってた。掛けるもの持ってこようかなって思ってたらお父さんが、ままに毛布をかけて頭撫でてた。私にはいくら考えても、お父さんの意図がわからなかった。わかりたくなかった。次の日ままと朝ごはん食べてるとき、毛布ありがとうねって言われて、お父さんのこと言おうか迷ったけど気づいたら、うん、風邪引かないでねって言っちゃった」

「父親ってみんなどこかしらに、ささくれがあるのかな」

「ささくれは父親に関わらず、みんなにあると思うよ。もちろん私にも。ただその大きさが人によって違ったり隠したり治したりするのが、上手な人がいると思う。人と親密度が深まるにつれて治ってく人もいれば、その人を信用しすぎてささくれを放置して、悪化させる人もいる」

「玲さんは結婚したい?」

「え、?結婚?うーん結婚かあ。今は考えてないよ。いや今って言うか、この先ずっとの方が正しいかな。ママを残して一人だけ幸せになれないよ。碧くんは?」

「玲さんは優しいね。俺は、俺は、父さんみたいになりたくない。けれど俺は父さんの種からできた人間だ。最初は誤魔化せても、絶対どっかでボロがでる」

「怖いよね。私もちょっと前まで、男の人がお酒を飲んでると体が強張ったりしてた。人と関わるって凄い大事だけど、凄い大事だからこそ慎重にいかなきゃいけない。難しいね」

「そうだね」

碧が私の頬を服の袖で拭った。どうやら気付かぬうちに、涙がでていたらしい。幼少期や小学生の頃の事は、自分の中で折り合いをつけたつもりだった。でもきっと完全に蓋をしめて封印するっていうのは、相当な時間と労力を使うんだと思う。

 それから私は碧の胸の中でめいいっぱい泣いた。人の胸を借りて泣くのはいつぶりだろうか。きっとここ十年はなかったと思う。離婚してから、泣く時は毎回布団の中で嗚咽を押し殺して泣いていた。碧のグレーのトレナーは、私の涙でたくさん染みができていた。

 ひとしきり泣いたあと、洟を擤みふと外に目をやると碧がうちに来た時は明るかったはずなのに、もうすっかり暗くなっていた。カーテンを閉め、部屋の電気を点ける。

 部屋の人工的な灯りで、碧の顔が照らされた。そして碧の頬にも涙が伝っていた。だいじょーぶ、だいじょーぶ、私がいるよ、と幼い子をあやすように、頭を撫でながら言う。私の口元から発された声は、面白いくらい頼りない涙声だった。

 数分あった沈黙を碧が、お腹空いたーと声をあげ破った。そういえば朝から何も食べていない。生憎今日は食材がほぼない。調味料とヨーグルトしかない。

 スマホと財布を持ち、家を出ようとすると、玄関の鏡に、赤く充血した二人の顔が映っていた。

 アパートの階段を降り、二人で並んで歩く。もうコンビニまでマップを見なくても行けるようになった。

 コンビニの支払いは碧が泣かせたお詫びに、と払ってくれた。碧も泣いてたから関係ないじゃんと言うとそういう気分なの、と断られてしまった。

 初めて会った時の事覚えてる?と碧に問う。

「あー覚えてる。俺、最初補導されるのかと思ったよ。けどよく見たら、スウェットにハーパンのかわいい女子でびっくりした。バカっぽいなあって思ってたら、スマホの充電が切れて道がわからない。家に帰れないって言うから笑いそうになったよ」

バカっぽいって酷い!と言うと碧がそうだ、公園行こうよと言い出し目的地を変更した。

 公園のブランコに腰掛ける。碧を初めて見た時の場所だ。碧はあの日なにしてたの?と聞くと家に帰りたくなかったから、暇つぶしをしてた、と言った。

「もし私が本物の悪いひとだったら、あんなにのこのこ案内したらダメだよ!碧が心配だ、、」

「いやいや、玲さんちっとも怖くなかったし、超部屋着だったから絶対ないなって思って案内したんだよ。俺もちゃんと善悪ぐらいはつくって。それこそ俺が、よくわかんない変態高校生だったらどうするつもりだったの」

と笑いながら言った。たしかになあー、でもあの時は帰ることしか考えてなかった。と笑うと碧が呆れたようにバカだ、と言った。

 今日帰る?それとも泊まってく?ときくと泊まる、と碧が答えた。

 先ほど買ったコンビニの袋からおにぎりを取り出すと、碧がここで食べるの?と驚いた顔を見せる。お腹空いたし、なんか外で食べるのも、たまにはいいでしょ。と言うと碧も袋の中に手を突っ込み、パンを取り出した。


 家につき碧にお風呂沸かして、といいながら、公園で食べたパンのゴミやおにぎりのゴミを捨てる。

 碧が風呂場から戻ってくると、ケトルに水を入れてお湯を沸かし始めた。コーヒー飲むの?と聞くとうん、玲さんもいる?と言った。顔を縦に振る。

 お風呂じゃんけんに勝ったため先に湯船に浸かる。

 シャワーを済ませ、バスタオルで足を拭こうと片足立ちをすると、少しふらついてしまい洗濯機に手をつくと、想像より大きな音がしてしまった。数秒後、足音が聞こえドアをノックされ大丈夫?と碧の声がした。大丈夫!と声をあげると気をつけてよ、と言われ足音が遠のいてった。

 脱衣所を後にして、リビングに向かう。ベッドに腰を下ろすと、碧が訝しげな顔をしてなにしてたの、と聞いてきた。体拭こうと思って、足あげたらふらついて洗濯機に手ついたら、めっちゃでかい音なっちゃた、と伝えると笑われると思ったが、怪我してない?と労われてしまって少し恥ずかしくなる。

 棚を開け、碧にバスタオルを手渡す。碧が脱衣所に向かった後、バスタオルで髪の水分をとり軽くブラシで梳かす。

 髪を乾かし終え、冷蔵庫を開ける。缶チューハイを取り出し、プルタブを手前に引くとぷしゅっ、と爽快的な音がした。

 ノートパソコンを開き、イヤフォンを繋ぐ。ブックマークしている、青いハーネスの配信サイトを開き、過去の配信をきく。鈴代イナが活動を休止になってから、青いハーネスの人気は劇的に崩れていってる。けれど熱心なファンや配信サイトの投げ銭などで、なんとか生計を立てている。そんな頑張ってる配信を聞き、新たなファンを獲得したりしている。

 缶チューハイを一つ空けたあたりで、碧が脱衣所から戻ってきた。いつも碧が座っている座椅子に私がいるから、私の横にフローリングに直で座る。パソコンの画面を見て私の片耳からイヤフォンを抜き、自分の耳に差し込む。声かわいいね、誰?と言う。青いハーネスっていう渋谷の地下ドル、と雑に説明すると、スマホを取り出し検索画面に、青いハーネスと打ち込み画像欄を開く。流し見ていた視線を止め、この人、玲さんに似てる。とスマホの画面を私の顔の前に持ってくる。そんなに私可愛くないよーとあしらうが、碧は懲りずに玲さんと笑い方似てるだとか、この向きになって、と注文をしてくる。それに従うと絶対これ玲さんでしょ、と詰めてくる。ここ来る前仕事何してたの?と聞かれ接客業と答えたら、更に状態を悪化させてしまった。

 碧と数分その件について話していたが、お酒を取りに行きたいと言い、無理くり話を終わらせた。

 冷蔵庫を開け缶チューハイを取り出すと、碧が俺の分もーと言ったため二本手に取り向かう。碧に缶チューハイを手渡す振りをして、すんでのところで碧の手を避けた。碧くんまだ未成年だからあげなーい、と言うと玲さんだって絶対二十歳じゃないでしょ、俺と同い年かせいぜい俺の二つ上くらいだろ、と言われてしまった為、仕方なく缶を渡すと碧がにやにやしながらこっちを見ていた。

 二缶目が無くなり、碧が冷蔵庫に取りに行った。少し眠気があり、目を瞑る。

 誰かに肩を叩かれ、軽く目を開けると、ぐわっと浮遊感があり、何か柔らかい場所に置かれた感じがした。

 目を開けると、部屋が真っ暗だった。スマホを見ると、午前二時半を示している。座椅子で寝たはずなのに、ベッドにいる。先ほどの浮遊感は、碧が移動させてくれた時のものだろう。スマホを閉じ二度寝をしようと、寝返りをうつと、碧の顔が鼻を掠ってしまいそうな距離にあり、声が漏れそうになった。少し頭を後ろにずらし今度こそ寝ようと意気込み、目を瞑るが右手に暖かい感触があり、布団を捲ると碧が私の手をがっちりと握っている。起きているのかと顔を凝視するが規則正しい寝息をたて、目はしっかりと瞑られている。碧の髪をさらさらと数回撫で目を瞑る。数分瞑っているとふっと意識が飛んだ。



 緩い微睡の中で唇に、柔らかい感触があたり、意識が濃くなる。ゆっくりと目をあけると、そこには碧の後頭部があった。耳が赤い。耳たぶを掴み、ヘンタイと悪戯げに言う。急に碧が寝返りを打ち、こちらを向いたからびっくりした。ねえ、玲さんって俺と歳あんまりかわらないんでしょ。玲って呼んでいいでしょ、とさも当たり前のことかのように、碧が口を開いた。口角を少しあげ、仕方ないなあ、と言う。碧が小声でやった、と言った。

 

  

 あれから一ヶ月たち、秋が終わろうとし、紅葉は風が吹くたびに舞い降り、地面に落ち、朽ち葉とななっていた。その上を雪虫が飛び交っている。

 私はバイトを始めた。いつも行くコンビニだ。

 バイトを始めてから、家にいることが減ったため、碧に合鍵を渡し連絡をしてくれれば、返事がなくても自由に出入りしてもらって構わない、と伝えた。私がバイトの間、碧は学校で自習をしていたり、公園にいたり、私の家にいたり、と自分の行動範囲を彷徨いて、時間を過ごしているらしい。碧が家に帰ることはがくんと減り、最近は月に三回ほどになっている。

 思ったよりバイトが早く終わったため、碧に言わずに公園に向かう。入り口には碧のいつもの、黒い自転車が停めてあった。

「だーれだ」

と古典的なカップルの真似事をすると、碧は玲。と静かに呼び私の手を退けた。

「はやかったね。どうしたの」

「島崎さんが間違って早くきちゃって、することないから上がっていいよって、言われたの」

碧がそうなんだ、今日は俺がご飯作るよ。と告げ、立ち上がり自転車の方に向かって行った。

 碧の自転車の後ろに久々に乗ると、ペダルを漕ぐたびに、碧の柔らかい出会った当初より数センチ伸びた髪がなびいて、私と同じシャンプーの匂いが鼻腔に届いた。



 バイトが終わり、雪が降り人々の雑踏により踏み固められ、更に雪が積もっていくのを繰り返し、何層にもなった積雪の上を、ざくざくと踏み締め帰路を闊歩する。今日は、碧が家に帰っているため、月に数回の独りだった。

 玄関を開け、返答があるわけでもないがただいま、と呟いてみる。予想通り、静けさを切り拓いてくれる声はなかった。

 碧が居ない日は、適当なもので済ますことが殆どだ。誰かに何かを振る舞い、ありがとうを聞くこと以外に凝った料理を作る必要性はあるのだろうか。私はキラキラな東京のアイドルじゃもうない。何もできないただの女子高生だ。いや、高校にも行ってないのだから、ただの社会不適合者か。

 湯船に浸かっていると、チャイムが無機質な音を立てた。碧なら来る前に必ず連絡をくれるはずだ。湯船から上がり、ざっと体の水分を拭き取り最低限の衣服を身につけ、小走りに玄関へ向かう。その間にもチャイムは急かし立てるように、なり響いていた。ドアスコープから外を覗くと、黒いパーカーが雪に塗れべしょべしょになっている碧がいた。

 ドアチェーンを外しどうしたの、と聞くが碧はただごめん、と力無く呟くだけだった。アパートの廊下に突っ立っているだけで、一向に部屋に入ろうとしないため半ば強引に手を掴み引き込む。掴んだ手は、とても冷たく震えていた。

「お風呂、沸いてる」

と言うとありがとう、と告げ碧の衣服が入ってる棚を開け、服などを取り出し脱衣所に向かっていった。

 何があったのか、状況が本当に掴めない。碧はこんな真冬の夜なのに、パーカーしか着ておらず、カバンも何も持っていないようで、とても切羽詰まっている様子だった。ベッドになんとなく視線をやると、碧がいつも使っている紺色のバスタオルが置いてあり、それを手に取り脱衣所にむか向かう。ノックをし、碧、入るよ、と告げる。引き戸を開けると、碧の鼻を啜る音がした。そして洗濯機の上にバスタオルを置いて脱衣所を後にする。

 シャワーの音が止まり数分して、碧が脱衣所から出てきた。碧は座椅子に座り、ただ膝を抱えフローリングを見つめるだけで、微動だにしなくなってしまった。髪の毛から雫が垂れ落ちる。

 玲、と碧が一時間ほどぶりに口を開いた。うん、と相槌を打ち続きを促す。

「今日、帰ったら四.時過ぎ なのに父さんがいて、母さんと何か話してる感じだったから、声 掛けないで部屋に行ったんだ。三十分ぐらいして、父さんの怒鳴り声が聞こえてきて、自分の事もま.まならないお前に、碧のことを預けれる わけがない、って聞こえて母さんが急に俺の 部屋にきたんだ。碧くんは私と一緒にいて.くれるよね、私のこと愛してるよね、って言い寄ってきて、俺逃げちゃちゃった。俺の家はもう二度と 機能しないのか??玲、俺どうすれば良い、玲、ねえ、玲、」

碧は拳を強く握り、涙ぐみ嗚咽を漏らした。私はただ碧を強く抱き締めるしか、なす術がなかった。

「玲は、俺を解いてくれる?」

「解く?」

「俺のしがらみ、全部解いてくれる?家の事、学校の事、劣等感、焦燥感、俺の中の全部絡まってぐちゃぐちゃになってるこれ。解いてよ。もう縛られたくない、いつか来る終わりに怯えながら、毎日を生きるのは苦しくて、息の仕方が分からなくなる」

碧が学校で何かあったのは想像がついていた。創立記念日だとか学級閉鎖だとか何かしら理由を付けて、学校がない振りをしていた。

 碧を見ていれば、過去の自分と嫌でも向き合わされなきゃいけなくて、辛かった。

 碧は母親に形は歪だけど愛されていて、碧も踠きながら愛を返そうとしていて、鬱陶しくて心臓が痛かった。

 都合の良いように私を拠り所にしてきて、むしゃくしゃしていた。

 私は、ママに愛されたことなんか無かった。碧に伝えた私が負傷して離婚したと言うのは、私自身に言い聞かせる為の、建前だった。

 本当は、私とパパが車で出掛けて交差点で止まっていた所に、目の前で正面衝突の事故が起き、事故にあった片方の車が、私たち親子の乗っている車を目掛けて飛んできて、パパはその事故の巻き添いで、亡くなった。パパは私に覆い被さり私を庇った。そしてママは私のせいでパパは死んだと私に日々、罵声と言う暴力を振るい、児童相談所に預けようとしたが、おばあちゃんが阻止してくれた。

 だが唯一私を愛してくれたおばあちゃんも、私を置いて亡くなってしまった。母親の私への態度は更に悪化し、私を罵声を浴びせる道具として扱いだした。高校の学費も出してくれなくなり、二ヶ月ほどはバイトをこれでもかと詰め込み、自費で払ったが高校生のバイトの財力だけでは続けていけなくなり、自主退学をした。

 しかし高校を辞めた理由は、学費の問題だけではない。高校にも私の居場所はなかっのだ。おばあちゃんの家に移住し、転校するとその高校でいじめのターゲットになってしまったが、何も取り柄がない私に、学歴という武器も無くなってしまったら、まともな就職ができないと思い日々通っていたのだ。

 そして、結局、高校を辞め、母親からの呪縛から逃れられると思い、アイドル時代のさまざまな伝手を借り、偽の身分証明書を作りやっとの思いで、この町にやってきたのだった。

 碧の首に、両手を被せる。

 碧はたまに、笑顔で私にクラスメイトの話をしてきたりして、憎かった。

 手に力が入り、碧の喉から嗚咽が漏れる。

 学校が嫌なんじゃないの?なんで、クラスメイトの話なんかするの?

 碧の目から、涙がとめどなく溢れる。

 私の無いものを沢山持っている碧が憎かった。

 私の目から、液体が溢れる。

 けど、私には碧しかいないから。

 私の目から溢れ落ちる液体は、碧の頬に落ち、碧の涙と混合した。

 私は碧しか考えられなかった。

 すき

 きらい

 すき

 私だけ見てほしい。

 きらい

 碧はまだやり直せるよ、って言わなきゃ。

 憎い

 お母さんのところに戻ってあげて、って言わなきゃ。

 碧、すきだよ

 このままなら私と永遠に、ずっと一緒にいれる。

 やめなきゃ

 大好き、愛してる。

 人を愛おしいと思うのは初めてなの。

 私が碧に向けていた感情は、なんだったんだろう。

 碧を壊してしまいたい。

 碧を解いてあげたい。

 


 すきだよ

 あいしてる

 解いてくれてありがとう

 玲といるときだけ全部忘れられた

 楽しかった

 ありがとう

 あいしてる

 玲。

 碧の手が私の頬を優しく撫でる。
 碧は満足したかのように微笑んで、瞼をゆっくりと閉じた。

 碧、いかないで、置いてかないで、

 辺りが鎮まりかえっている。

 「碧、愛してる、ずっとずっと」

 声を掛けても、碧は返事をしてくれない、どうして無視するの、碧。

 

 ベランダを開けると、雪が室内に入り込んできた。手のひらに結晶がのったと思いきや、すぐに溶けてしまった。
 碧をおぶり、ベランダに座らせる。ベランダは、肺が凍りそうなくらい寒かった。ベランダを閉めると、窓越しにりとが見つめていた。少しだけ開け、りとの額を撫で再度閉める。そして碧の唇に、自分の唇を数秒押し付け、碧の隣に座り、碧の少し固い手を握りゆっくりと目を瞑る。


 もう私が寝ていても碧はキスをしてくれない。 


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