ルールよりマナー
うちの組織では、いろいろと「改革」をやっているらしい。人が働きやすくなるよう、より効果的な働き方ができるように、とデジタル化やジョブ型へのシフトなどさまざまな試みが行われている。
これらはとても大事なことだが、スローガンだけが美しくて、なかなか見えるところには現れない、というのが実際のところである。
例えば、先のジョブ型へのシフトを取り上げてみる。うちの組織は元来ジェネラリスト型であり、言ってしまえば、各個人の仕事は事務作業だ。各書類が論理的破綻がない程度に化粧をする、アリバイづくりのための事前調整を行い、決裁という名のハンコリレーを行う。一方、ジョブ型というのは、各個人の仕事に要求する専門性があり、かつ範囲がある。その範囲で要求されている仕事を効果的に行うことが評価につながる、ざっくりと言えばこういう仕組みだ。
そこで問題は何かといえば、仕事の中身の無さなんである。つまり、ジェネラリストの仕事をTOR的に仕事の枠組みを作って文面に落とししてみると、専門的な要求事項や、困難なタスクというのがそれほどないのだ。だから、これがジョブ型です!と人事はいきりたって幾つかのポストを社内工房にしているのだが、通常の異動でそのポストに行くのと何ら変わりないことが書かれてある。
つまり、起きているのは何かというと、人事異動で人生を無知の人間に左右されていた、という状況から、無知の人間が作成したポストに自ら応募し、無知人が判断し配置する、ということが起きようとしているにすぎない。一見、自主的にキャリアを選べるように見えるのだが、その実、適切性や的確性を判断するのは無知人なのだから、彼らが頼るのは、上司が納得するか、関係者でなにか不具合が起きないか、決まりに則っているか、という形式的かつ、無意味な調整に対する効率性であり、およそまともな思考プロセスが起きているとは考えづらい。
詰まるところ、彼ら無知人が拠り所にしているのは何か、といえば、社内のルールなのである。失敗しないことを最善としている民族が頼れるものはそれだけだ。だから社内ではマニュアルという何十ページにもわたる説明文書が絶えず更新、あるいは生産され続け、その作業が礼賛される。読んでいなかったものは出遅れていく。
こんな文化だから、何か新しいことをやりましょう、という標語を間に受けて、新しい事業や、他機関との連携を提案した。しかし、返ってくるのは大半が「ルールではできません」という答えだった。中には検討してくれる人もいるのだがかなり少数で、まずは、それが個人の感覚としてよさそうかどうか、という感覚で受け止め、それをルールの中で何とかやるためにはどうしたらいいのか、あたまを使ってくれる人が増えないものだろうか。ルールに則って仕分けするという彼らの仕事なんて、機械にできることなのだから、いつしかなくなってしまうだろうし、かれらが生計を維持するためにも大事なことだとおもう出来事だった。
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