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与えられ、与えるという営み

子育てをしていると、子どもが産まれてくるまでは全く身近ではなかった道具を使うようになることがある。

私の場合、例えばそれはミルクを電子レンジで消毒するためのプラスチックケースだ。

それは30センチ四方くらいのプラスチックケースで、洗った哺乳瓶と少しの水をその中に入れ、電子レンジで加熱すれば、哺乳瓶の消毒ができるという優れものである。

子育てをするまではこんな道具があるなんて全く知らなかった。

でも娘が小さい頃は子育てにかかせない道具として日常的に使っていた。

娘はミルクを夜中に飲むことが多かったので、寝ぼけつつ夜中に電子レンジで消毒していたことを今では懐かしく思い出す。

夜中にミルクを飲ませた後は、ミルクを飲んで満腹になりウトウトしだした娘をまず寝かしつける。そして哺乳瓶を洗い、消毒してようやく私はまた眠ることができる。
寝不足になりつつ、我ながらまあ頑張っていたかなと思う。

ただここで気がついたことがある。

私が赤ちゃんだったころは、消毒できるプラスチックケースはない。

私が赤ちゃんだったころは、ミルクを飲んだ後はいつも哺乳瓶は母が煮沸消毒をしていたはずである。

私は母乳をあまり飲まず、ほぼミルクで育ったと母がよく言っている。だからきっと昼夜を問わず、哺乳瓶の使用頻度は高かったと思われる。

昔の煮沸消毒のやり方は分からないが、きっと今よりずっと大変だったということに間違いはあるまい。

プラスチックケースで消毒することすら、毎回ちょっと面倒だと私は思っていたが、それどころではないだろう。

私が電子レンジで簡単に消毒していたことに比べて、母がしていたであろう煮沸消毒は労力があまりにも違う。


きっと私の母は、私がミルクを飲むたびに、苦労しながらも私のために哺乳瓶を消毒していつも清潔な状態にしておいてくれた。

赤ちゃんを清潔な環境下におくということは育児においてかなり大切なことである。
それは今も昔も変わりはない。
しかし、道具の発達によって、清潔を保つ労力の差は今と昔で確実に差はあるなと気がついた。


このような今と昔の赤ちゃんを清潔な環境にしておくことの労力の差は、哺乳瓶の煮沸消毒の他にもある。

今と昔のオムツ事情の違いも、その一つであろう。

母は私を布オムツで育てたらしい。

布オムツの育児とは私には想像もできない。

今の紙オムツは非常に吸収力に優れている。
おしっこをたっぷり吸ってくれて、よほど長い間履き続けていなければ、おしっこが横もれすることはない。

しかも紙なので破って脱がせて、くるっと丸めてオムツ本体についているテープでまいて、コンパクトに捨てることができる。

布オムツはそうはいかないだろう。私は使ったことはないので、詳しくは分からないが吸水性は今の紙オムツより圧倒的に低いように思われる。

だから今より頻繁にオムツ替えをしなければならなかっただろう。

そして布オムツは洗濯をしなければいけない。
おしっこやうんちがついているので、そのまま洗濯機に放り込むなんてことは出来なかったと想像できる。

きっと手洗いで汚れをだいたい落としてから、洗濯機でさらに洗っていたのではないだろうか。

そして洗濯が終わったら干して乾かして、それを取り込んで畳まなければいけない。

これはどう考えても、大変な労力である。
紙オムツを使用して、楽をしている私にとっては想像もつかないくらいのことである。

母は毎日、私に清潔なオムツを履かせてくれようととても苦労してくれたんだろうと思う。

私には考えられないくらいの苦労をして私に清潔な環境を提供してくれた母。
子育てをしなければ、そんな母の努力に気付けなかったと思った。


しかし、ここまで書いてきてどこか違和感を感じてきた。

赤ちゃんを清潔に保つことをここまで私は「労力」、「苦労」、「努力」などと表現してきた。

どの言葉も、頑張ってやっている、仕方なくやっているというようなニュアンスが含まれている。

私が親になって思うのは、赤ちゃんを清潔な環境におくことは「仕方なくやっていること」ではない。

もちろん子育てには「労力」、「苦労」、「努力」が必要ではあるが、それだけではない。

それ以上のものがあるから、私は子育てが喜びとともにできる。

それが何かというと、我が子を清潔な状態にして、守りたいと思うのは、根本のところで親から子どもへの愛があるからだ。

清潔は親が子どもに与えられる愛の形の一つなのだと私は思った。

愛があるゆえに多大な「労力」、「苦労」、「努力」が必要とされようともできてしまう。

子どもの健全な発育を心から願うので、私たちは清潔を保ち子どもの健康を守りたいと思う。

きっと母は私への愛が根底にあるからこそ、哺乳瓶の煮沸消毒や布オムツの処理をしてくれていた。
そして私は清潔な状態に保たれるという大きな愛を受けていた。

今度は私が自分の子どもに清潔という愛を与える番である。
母から与えられた愛を、子どもに与えることができる。これはとても幸せなことだ。

私を通して愛が受け継がれていく。

ずっと昔から続いてきた、愛を与えられ、それをまた与えるという幸せな営みの一部に、私も加われた。

これはかなり尊いことなのではないかと私は思っている。
与えられ、与えるという関係は人間の本質に関わっている気がするからだ。

これからも子どもを清潔な環境で育て、十分な愛を与えていきたい。


私が母にそうしてもらったように。


私にとって清潔のマイルールとは、親からもらった愛と同じ愛を子どもに与えることだ。

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