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圧倒的な欠損、欠陥、喪失感について。

普段は自宅と職場の往復で特段変わったことは起こらない。家庭も仕事もちょっとした出来事はあるが、大抵は予想可能なことであり、日常生活において大きく心が動くことはそれほど多くない。

人がなぜ出かけるかというと、日常生活から抜け出し、いつもとは違う環境に身を置き、心へ刺激を与えたいのではないかと私は思っている。

旅に出る理由は心を動かしたいからなのではないかと私は考えているのだ。

この世界には旅に出る理由があり、喜びと悲しみが時に訪ねる、とラブリーで愛し愛されて生き、さよならなんて云えないあの人も言っている。


つまり何が言いたかったかというと、三連休にお出かけをしたということである。

ニューアコースティックキャンプというフェスに行ってきた。音楽フェスとキャンプが融合したイベントである。ワークショップやアクティビティなども用意されていて、子どもも一緒に楽しめるフェスである。

子どもたち(6歳娘と4歳息子)はお人形作りやレザークラフト、森の散歩をして楽しんだ。

私はキャンプ初級者なので、テント設営に苦労しつつ、家族みんなのその日の寝床をなんとか確保できた。

テントを傾斜地に立てすぎて、寝にくかったり、隣のテントの人たちが酔っ払ってハイテンションになり、なぜかどんなカップラーメンが美味しいかという話を夜遅くまでしていてうるさかったりした、などとキャンプに関する思い出ができた。


そして、音楽フェスとして参加した感想も生まれたので、今日はそれを詳しく書いてみたい。

私はここ20年でのべ200くらいの音楽フェスに行っている。だからたくさんのミュージシャンの演奏を観てきた。

ただ今回参加するフェスでは、私がわりと好きであるにも関わらず、今まで一度も生で観たことのないミュージシャンが出演していたのである。多くのフェスに参加していると、好きなミュージシャンについては、どこかで一度くらいは観ているのだが、今回のミュージシャンについてはその機会に恵まれていなかった。

私がこのフェスではじめて観たミュージシャンとは、40代、50代の人がリアルタイムで聴いていたであろうバンドである。

私はややリアルタイム世代ではない。

ただとても有名なバンドので、名前はもちろん知っているし有名な数曲は何度も聴いている。

このバンドは、青春期の恋愛を素直に歌い上げる曲が多い。

息子と一緒にこのバンドの演奏を聴いた。
私の息子は音楽が好きであり、フェスに行くと可能な限り前に行きたがるという、小さい子にしては珍しい習性をもっている。

息子は肩車を私にせがむと、「パパもっと前よ。前に行くよ」と指示を出してくる。
今回のフェスは比較的参加者が少なく前に出やすい上に、アコースティックセットということで音も小さいので息子の耳への悪影響も少ないと判断して、一番前まで出てみた。

さすがベテランバンドで、普段のバンドセットとは勝手が違うアコースティックセットでも素晴らしい演奏を聴かせてくれた。

私も息子もノリノリである。
すごいなぁ、楽しいなぁと、この上なく素直すぎる感情が私を支配した。

そして一番そのバンドの中で有名な曲を、終盤のあたりでついに演奏してくれたのである。
私もその曲はよく知っているし一番好きなので「やった!この曲が聴ける!」という気持ちだった。

この曲をやってくれて、生で聴けて良かったと思いつつ、ふと後ろを振り返ると観客であるおじさんたちが涙を流しているのである。

やっぱりこの曲は多くの人の心に残っているのだ。きっとこの曲をリアルタイムで聴いたであろうおじさんたちは、その頃のことを思い出し感極まったのであろう。

名曲は色褪せないし、何年経っても人を感動させることができるのだと分かった瞬間である。

そして知らず知らずのうちに私の目からも涙がひと筋こぼれ落ちていた。

やっぱり音楽って素晴らしい。
音楽って本当にいいものですねとしみじみ言いたくなった。

しかし、ここで私はふと気がついてしまった。

この曲で歌われている内容は青春時代の恋の話である。とても雑に説明すると、若い恋っていいね、君が好き、青春バンザイというな歌詞なのである。

ここで私はふと冷静になった。
私はこんな青春時代を送っていない。

帰宅部かつ友達も少なく、彼女なんてもっての外という青春時代を送っていた。

そして、この類の青春時代の恋についての曲を、青春時代である当時は遠い世界のおとぎ話のように聴いていた。羨ましいなと思いつつ、自分とは無関係な世界の話として受け止めていた。

そんな距離感だったこの曲を、今は懐かしがって涙しながら聴いている。

自分ことながら「いや、泣くほどこの曲に感情移入する経験なんてなくないか?」とツッコミたくなった。

周りで泣いているおじさんたちは、この曲に思い入れがあり、この歌詞に近いような青春時代の恋を思い出して涙しているのであろう。

私は違う。

なんとなく雰囲気で泣いているだけである。
この曲を聴くとなんかいい青春があったように勘違いしてしまう。思い出改竄罪、思い出修正罪、思い出捏造罪に問われてしまう。

私にこの曲で感動する権利なんてあるのだろうか。周りのおじさんたちと一見同じよう涙をしているが、感情を全く共有していないのではないか。同じ場所で同じバンドの同じ音楽を聴きながら、私と周りには圧倒的な乖離があるのではないか。このバンドが歌うような青春を送れていない私は、決定的な欠損があるのではないか。それは今や未来がどんなに満たされたとしても、もはやそれは埋めることができないのではないか。そして、その埋めることができない穴は私の人格形成に決定的な不利を生み出しているのではないか。私はこのまま一生、不完全で歪で人として大切な何かを失ったまま生き続けなければいけないのではないか。喪失感、圧倒的欠陥、そんな自分を受け止めることはできるのか。

そんなことを考えずにはいられなかった。

ただ肩ごしに上方を見ると、肩車をされて楽しそうな息子がいて、さらにはこのバンドが歌う「きれいな夜空」が広がっていたのでもうちょっと生きていようかなと思ったのである。

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