10/7 雑記

オタクは奴隷が好き。
私はまぁまぁオタクの気がある。
つまり私は奴隷が好き。

現代の奴隷制度というと日本では外国人技能実習制度だったり、中国だとウイグルの強制労働だったり、タイや韓国、サウジアラビア辺りでも外国人労働者が被害を受ける類の似たような事例だったりとまま見られるわけだが米国は囚人労働がどうやらそれっぽい。
いわゆる先進国ではグローバリズム以後自国の植民地化が生じていたらしいので、米国もその流れなのかなと思っていたら奴隷制廃止の1865年からずっと囚人労働やっているらしい。年季が入っている。

『1865年に憲法修正第13条が成立して以来、収監された人々を安価な労働力または無償の労働力として利用することは、合衆国憲法によって保護されてきた。皮肉なことに、これは奴隷制と年季奉公を廃止した修正条項と同じであったが、ある重要な文言が、便利な抜け穴を用意していた。修正第13条は、奴隷制と年季奉公を 「犯罪に対する刑罰としての場合を除き」廃止したのだ。』

法的に刑罰としての労働が是とされているということか。欧米は労働を苦役とする価値観であるとは聞いていたので納得感がある。

囚人労働自体は日本にもあるし、刑務所で作ってる洗濯石鹸(ブルースティック)が人気という記事を最近みかけたりする(犯罪で手を汚した人間が石鹸作って罪を贖うって面白過ぎる)わけだが、この米国の事例はなかなかグロテスクなものを感じる。
警官のヘルメット、防弾チョッキ、パトリオットミサイルの部品、グローバル企業の製品や制服など統治権力の維持や基盤強化の為に労働力が使われている辺りが何とも。
囚人の労働力をうまく収益に繋げており、さすが合理主義の米国と言えなくもない。しかしながら刑務作業を大規模な産業化している以上は常に一定数の労働力(犯罪者)を必要とする状態が生じそうでこれはこれで嫌な予感がするな。


弱者の悪意や凶行って新鮮味があるというか、ドキッとさせられるものがあるな。

ところで、私は大学生の頃セブンイレブンでバイトしていたのだが、同大学に通う女子大生と同じシフトに入ることが多かった。その女子大生はずんぐりむっくりとしたシルエットの娘さんで口数も少なく年相応にオシャレをすることもなく、なんというか夜間の工事現場に佇む重機みたいな女の子だったのだけれど、その重機系女子に唐突に告白されたことがある。
非常に驚いて反射的に拒絶したのだが、この時のことを考えると今でもほんのり罪悪感を感じたりする。当時の私は金回りが悪すぎて酷く神経質になっており、ひねもす自裁の事を考えているようなギリギリ状態であったため、他者を受け入れる精神的余裕は一切なく断りと入れるのは必然だったとは思う。
けれど当時の私はそもそもの前提というか認知が大分良くなくて、重機系女子は他者へ好意を持つ機能が実装されていない、あるいは予め愛される可能性を一切断念していて然るべきと考えていた。つまりあるカテゴリーの人間には人間らしい情緒を期待しなくて良い、社会的評価に見合った行動規範に順じてその外部へと踏み出すことはないと思っていた節がある。端的に言えばブスは身の程を弁えて恋をしないと考えていたわけだが、見てくれの悪い己をナチュラルにそこから除外していたことも踏まえると、実に酷いアイデアであると言わざる得ない。
これは本当に良くない認知であって、どんな弱者であっても強者と変わらぬ諸々の情緒が頭蓋内でドロドロと渦巻きグツグツと煮立っているということを想定してしかるべきだなぁ、というのがこの経験から得た教訓であったのだが、上記引用の記事のような「加害性のある弱者」案件を見るとそれを思い出してしまう。そして折角得た教訓を忘れていたことに気づいて、いかんなぁと反省する。

どんなに体が不自由で年喰ってて弱っていても人間である以上は攻撃性を発揮することはある。物理的な攻撃性の発露を試みることもある。環境に追い詰められれば怒りもする。「弱者」というレッテルはそれを貼られた者を無力なキャラクターにしようとするけれど、人間はキャラクターではないのでその企ては失敗しがちである。
車椅子の老人がナイフを振り回す光景はイメージとしては結構面白いと感じるのだけれど、その面白さってのは周囲が勝手に期待している弱者のキャラクター性からはみ出すことで生じる面白さなんだろうな。
人間である以上は(自身を含め)どんな人間であれ犯すし奪うし殺すことはあり得るんだけどね。(そんな認知で大丈夫か?と思われそうだが、まぁまぁ大丈夫ではない。)

社会的弱者は無力なキャラクターでなければ十全なサポートは望めない、よって弱者本人もそのように振舞うだろう、いや振舞うべし。そういう期待というか圧力なしに、社会的弱者への世間の配慮や気遣いがうまく機能するかはちょっと疑問があるのだけれど。


田畑に囲まれた土地に住んでいるのでジャンボタニシの卵はよく見るし、見る度に大分嫌な気持ちになっていたが神経毒あったのか。本能的にくる色味だとは思っていた。


赤坂憲雄の『奴隷と家畜』を読んだ。
奴隷も家畜も好きなので。

映画や漫画や小説などのテクストを横断しながら奴隷や家畜についてつれづれと書かれたエッセイで読み易く面白かった。テーマを掘り下げて概念を構造化していくような本ではなく、思いつくままにキャンバスに色を足して重ねていくような本とでもいえばいいか。非常に面白かった同著者『性喰考』と似たような読後感がある。(『性喰考』は私のオールタイムベストに上げていいくらい良い本だと思うよ)宮沢賢治への言及から始まる序盤も『性喰考』とのつながりを感じさせる。
『性喰考』を読んで読み終えるのが惜しいと感じた人は脇にこの『奴隷と家畜』を備えておくとよいだろう。ある意味この本は人間が性を介さずに他者を「食い物」にするということについて書かれた本でもあるので。

奴隷農場と家畜人ヤプーについての論考が刺激的というか、そもそも扱っている概念が「奴隷農場」と「家畜人」という嫌な予感しかしない強すぎるワードということもあって、読んでいてクラクラしてくる。もはや読む劇物である。『家畜人ヤプー』に関しては著者も読むのに難儀したらしい事があとがきに述べられていたが、私もかつて同小説に手を出して即食傷起こして本を閉じた覚えがあるのでいたく共感した。宮沢賢治についてのエモすぎる論考書くような人が楽しく読める本ではないもんなアレは。江川達也が漫画化していたがどのページ開いても絵面がまぁ酷かった。

いささか脱線したが奴隷農場なるものがどうやらかつてあったらしい、ということがこの本に書かれていて興味深かった。当然米国の話なのだけれど「マンディンゴ」という物語を下地にしてそこで奴隷農場なるものの性質が語られている。
黒人奴隷というとアフリカ大陸で捕まえられ、船にギッシリと積み込まれて新大陸で死ぬまで苦役を課されるものという認識であったが、奴隷農場の奴隷の場合は大分毛色が違ってくる。農場というだけあって奴隷を農場で飼って増やすことに主眼が置かれたものであったらしい。つまり奴隷の労働力が搾取の対象になっていたわけではなく、奴隷の存在そのものが商品価値に置き換えられていたため、酷く傷つけられることもなく酷使されることもなかったらしい。
ここに西欧社会において発達した畜産の技術と黒人奴隷制度との関わり合いが見て取れる、らしい。
『動物と西欧思想』という本曰く
「ヨーロッパ人種が動物について長年蓄積してきた技術のすべてがそっくり黒人奴隷に適応された」とのこと。

この下りを読んで「人権侵害2.0」という言葉が過った。
凄すぎる。

生まれた土地から連れ去られ、手にしていた自由を奪われ、苦痛を与えられて意志を抑圧され、苦役を課されるという状態は自身の身に置き換えてみるまでもなく良くないことであると、それを誰かに行うのは人倫にもとると断じるのは容易い。
しかしこの畜産技術を応用して奴隷を飼育して増やして売ろう、という発想は何か次元が一段違ってしまっていて困惑の方が先に来る。しかも商品として大事にされているという。そこには良くも悪くも人間の支配欲の匂いは感じられない。今も続く資本主義システムが剥き出しにされているだけなので、どうにもうまく批判できない。
人間の自由というものが生の無目的性に支えられているとすれば、予め用途が決められて作り出された生にとっての自由とは、などと妙に哲学的な困惑の沼に嵌まり込んでしまう。

ところで現代の日本では新生児は臭くて暗い穴から汁だらけで吐き出されるなり役所に存在を登録されて健康状態を定期的に監視され、一定の年齢に達すると学校という工員と兵隊となるための基礎を叩きこむ施設に放り込まれて大事に飼育され、読み書き算盤を学ぶと同時に集団生活を送るための規範教え込まれ、一つの時計に従って生きる訓練を施される。月並みな話ではあるが、ここに奴隷農場と本質的な類似性を見るのは難しくないだろう。
幼少期を終えて世に出ても生きてるだけで税金の支払い義務が生じ続けるが、そこから逃れてもまず生きて生けないという一種の隷属状態におかれるのが我々の生の一面である。
主人の姿が可視化されているかどうかの違いを無視すれば、我々の大半は人生の多くの時間を家畜や奴隷と似たような状態に置かれて生きていかざる得ないのではないか。
中学生の頃にこれに似たようなことを散々考えた覚えがあるなぁ。

奴隷も家畜もあまり考えすぎると悪酔いする概念だろう。
この『奴隷と家畜』は作中度々怪しいところに踏み込んでいるがエッセイ形式で書かれていためかさほど深みに嵌まらずに読める。
何より様々なテクストを興味深く紹介しているため読むと読書の幅が広がる良い本だと思う。面白かった。



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