10/22 雑記

 チー牛というスラングがすっかり一般化してしまって久しいが、この手のオタクというかカースト下位のオメガオスを揶揄する物言いというのは、自虐味ありきで使用するものであって、「私は違うが」というニュアンスを匂わせてしまうと面白みが半減してしまうんだよな。安心して笑えないというか。単純な中傷となり果ててしまった時ネット界隈発のスラングは終わってしまうのだと思う。
とはいえ言葉はナマモノなので使われていく中で意味が変質するとか使われ方が変わるとかいうことは避けられないことではあるのだが。

ところで事件が起こってからずっと考えていたのだが、多分私は四谷大塚の講師に似ている。例のSNSで女子児童を対象にしたアレでアレしたやつ。
性的嗜好もちょっとカスってるし、見てくれも系統が近いので四谷大塚系男子といってよい。(社会生活上は全く良くないが)
神経質そうなところとか骨格が脆弱そうなところとかテストステロン値低そうなところとか、私っぽいんだよなぁ。
とはいえ悲しいことに学歴では完全に負けているので、その辺りを踏まえると「頭の悪い四谷大塚」という強めのパンチラインが出来上がってしまう。無能なサイコパスくらい救いがない。あんまりだ。

チー牛というワードの使われ方に好感をもてないチー牛各位におかれましては、今後「頭の悪い四谷大塚」を使用されてみてはいかがでしょうか?キャッチーさで負けてる感は否めないが。


 二十年ぶりくらいに映画『トゥルーマン・ショー』を見た。ネトフリにあったので。

ジム・キャリーが大人気だった当時はそれなりに話題になった作品で、内容も結構深いと語られていたように思うが、今観ると随分牧歌的な映画に見えてしまうな。
テレビというメディアが時代遅れになってしまっている現在において、誰も彼もが24時間垂れ流されている同じ番組を固唾を飲んで見守る、という状況ってもはや説得力がないんだよな。
ついでに令和の世ではSNSやyoutubeで誰もが自身の事を頼まれてもないのに積極的に発信するという風潮が嵐のように吹き荒れて去っていきつつあるわけだが、結果分かってきたのは他人からしてみれば特別でもなんでもない人一人の人生なんてそこまで面白いものではないということだろう。ちょっと面白い素人が動画上げて稼げた時代は過ぎ去ってしまっている。
リアリティーショーは相変わらず一定の需要があるものの、視聴者の大半は演出込みで楽しんでいるわけで、「リアリティー」はそういう体であるという前置き程度の意味しかない。
今の世の中に『トゥルーマンショー』的なものが始まっても人権団体こそ大騒ぎするかもしれないが、作中で描かれているように世界中で人気とはならない。なぜならネット上にはトゥルーマンワナビみたいなのが大量に発生しており競合するので。

そんなわけで、この時代に『トゥルーマン・ショー』を見る価値があるかどうかは微妙なところであるなと思った。撮り方は巧みであるし、コメディとしての作りも良いし、脚本のテンポは良くて100分かそこらでうまくまとめてるし、メディアへの皮肉も効いていて面白いっちゃ面白いんだが。
またインターネットが本格的に普及する前のテレビメディアがどれだけ文化や生活の中心足りえたかという点や、個々の生活を積極的に自主的に暴露する文化が起こる前の世界とはどういうものであったかという点、この辺りを考える上では参考になる映画なんじゃなかろうか。


昨今何かと話題になりがちなBBCの特集が面白かった。
インド社会で中国資本の簡易ローンが暴れているという話。
私がインドを旅したのはもう5年前になるが、その時には既にインドはスマホ大国でみんなやたら自撮りが好きで、ソーシャルネットワークが好きだった覚えがある。
また人が多いだけあって人付き合いが密接で人治主義で何とか回ってるカオスな国という印象をもったのだけれど、そういう社会の仕組みをうまく突いた詐欺が生じているらしい。
インド社会は過酷な分そこで生きる人々は皆強かで癖があるので詐欺をやろうという発想は日本人には出てこないよな。さすが中国人。
借りた金を返さずにいるとアプリで抜かれた連絡先にクソコラを送りつける下りは笑った。しかもそれを本気で恐れてる辺りも文化の違いを感じられて面白い。


あまりに「正しく」コラボしていて笑ってしまった。
ちいかわのイベントに参加した人達自身がちいかわになってしまっているという状況、ファン冥利に尽きるのではなかろうか。


イスラエルのテロの記事読んで、ハラリ偉いと思った。
言ってしまえば「どっちもどっち論」だが、ユダヤ人本人がやっているので何も言えない。
冷静だよな。


「法化がもたらした弊害」という副題で書かれた記事だが、最近似たようなことをよく考えるので面白く読んでしまった。
法令や判決の文言で「社会通念上許されない」とかいう言い回しがよくあったりするけれど、法はそれだけでその統治下にある人間の行動の一切を制限、規定しうるものではなくて、他の様々なルールとの組み合わせで運用されているものなんだよな。
またコンプライアンスという言葉がここ20年くらいで日常用語化しているけれど、ここから伺えるのは個々の企業や企業間でのローカルルールに対して、法令をメジャーなルールとして優越させていく、という社会の潮流だろう。ルール間の力関係をハッキリさせていこうぜ、というのを皆で推し進めている状況って結構恐い感じがする。
特に共同体に深く関わることもなく、生涯独身でやっていく人間からすれば明文化されたルールに則って規則正しく運用される社会システムというものは便利で明瞭ではあり好ましい仕様であるはずなのだけれど、ただ人間社会というのはこういうものではないよなぁとか、漠然と不自由だなぁとか融通が利かないなぁとかは思ってしまうよな。


雨が降れば桶屋が儲かるとはいうが、雨が降らないと児童婚が増えるらしい。


ネトフリの映画「ドント・ルック・アップ」が面白かった。
ディカプリオはコメディーいけるんだな。
アメリカ社会を徹底的にこき下ろしているように見えるけれど、センシティブな問題は極力避けてるんだよな。


来月まではひたすら映画観て本読んで過ごす。
11月からは勉強を再開する。

お金ほしい。お金ください。