9/10 雑記
資格試験に受かった。
web上の速報ではそういうことらしい。
受験した二科目を公開された解答でもって自己採点をした結果、一つは95%もう一つは100%点が取れていたので試験の手応えは十分にあったものの正直ホッとした。
これで電気関係の業務独占資格を一つ手に入れた。
今後は今回受けた資格のもう一段階上の資格を狙うが、しばらくは休養期間と準備期間を設ける。疲れたので。
資格取れたので次は計画していた通り転職と転居である。
既に手続きは始めているが自分の都合だけではどうにもならない事柄であるので焦らずボチボチやっていく。
何にせよ一段落ついた。
やったぜ。
https://www.hayakawabooks.com/n/n19a52e84032a
『統合失調症の一族:遺伝か環境か』読了した。
子ども12人の内6人が統合失調症を発症するという地獄のような家庭のノンフィクション。
子ども12人という時点で既に「多頭飼育崩壊」というワードが過るが、そこに「統合失調症を次々と発症」なのだからあらすじの時点で最悪である。
プロローグから本書3分の1辺りまでは「うわぁ」と声が出る類の話なのだけれど、読み進める内に慣れてきてちゃんと面白くなってくる。つまりテーマのショッキングな性質で最後まで引っ張るような、食傷を起こさせる類の本ではない。
ページを開くまでは医療・科学寄りの本かと思っていたが、内容を読んでみると話の焦点を一つの家庭に絞っている為統合失調症の治療やケアに関して体系的な知見を得られる類の読み物ではなかった。けれどノンフィクション小説としては十分に面白い。取材も丁寧にかつ深く踏み込んでやっているのが伺える。昔読んだジョン・アーヴィングの小説を彷彿とさせる。『ホテル・ニューハンプシャー』とか『サイダーハウスルール』とか。特殊な家庭で次々と奇妙な事件や悲しみが生じる感じが実にそれっぽい。
本書は統合失調症の家人を抱えて生きる家庭の歴史を描いているノンフィクションであり、そこに生きる人々が自身の人生に折り合いをつけながら何とかやっていく本であり、「やっとるなぁ」と思いました。
ちなみにノンフィクションなのでオチはさほど強くないし、タイトルにある「遺伝か環境か」という問いの答えは明確には出ない。どうやらどっちもあるらしい。
私が感心したのは作中で語られる米国の医療体制の充実ぶりだろうか。米国というと医療費が高いのでみんな病気を家庭での投薬で治そうとするというのは聞いたことがあり、何となしに福祉体制弱いんだろうなと考えていたが、どっこい少なくとも50年前から手厚くやっている。これ「金払えれば」という話なんだろうけれど、医療問題って貧困と紐づけて語られるものしか読んでこなかったので、持てる側から見た医療の在り方が面白かった。
韓国でも日本と同じようなこと起きてるらしい。
京王線ジョーカー事件の犯人も「自分だけ貧乏くじを引かされている」とか言ってたし。
日韓とも似たような文化で元々民族的に同質性が高いので、相対的剥奪感が大きくなれば必然的にそうなるよな。
SNSが生活に定着して以降の世界的流れとして同期していると思うので、日韓だけではなく世界的な現象じゃないかと思う。
社会に置いて階級の概念があまり表立ってない社会ほど、つまり建前としての公平さがまだ幾らか機能している社会の方が相対的剥奪感を感じる機会は多そうであるが、この辺の比較研究がある本をいずれ読みたい。
相対的剥奪で検索すると格差と共に論じられる記事がよく出てくるけれど、根底にあるのは上記記事のような「模倣の欲望」も深く関わっていると思う。
例えばSNS上に日々垂れ流される資本の見せびらかしを見て、自身の充足感が損なわれる、という事態は相対的剥奪が生じているようでもあるし模倣の欲望が生じているようでもある。
広告が氾濫する社会で生きている人々にとってもはや自明のことだと思うのだけれど、我々は我々が何を欲しているのか真に理解してはいない。
どこぞの文化人が「幸福とは誰かの真似にすぎない」と語っていたが、まさにそれである。そして欲する対象が移ろっていくからこそ、虚像を我々が追いかけているからこそ資本主義は機能している節がある。
そんな中で自身が充足感を損なわれていると感じ、それが問題を生じさせているのだとしたら最終的に政策や福祉で何とか出来る話じゃなくなりそうなんだよな。
いっそ「公平さ」を全面的に否定して各々剝き出しのリアリズムを生きていけばいいじゃないかとは思うが、それをやってしまうと始末に負えなくなる無法が顕現しそうであるし困ったね。
アマプラにカウリスマキの「マッチ工場の少女」きてるな!!
お金ほしい。お金ください。