見出し画像

広く浅く狭く深い

10代の頃、誰に見せるでもなく書いていたノート。引っ張り出してきて読んだら、当時の私は「狭く深い」人間になりたかったらしい。それどころか「広く浅い」人間にはなりたくないとはっきり書かれている。

今の私は、誰かの「広く浅く」とか「狭く深く」とかいうことについて、あんまり殊更にいうことじゃないよなあ、と思っている。人の趣味嗜好とか好奇心とか人間関係にものさしをあてて、誰かと比べてどうのこうのいうのってあんまり楽しいことじゃないなと、いつだったかはたと気づいた。

でも、自分自身が「広く浅く」なりすぎていないか、「深く狭く」なりすぎていないか、ときどき俯瞰して点検することは、面白いことではないとしても大切なことなんだろうと思う。

「狭く深く」とか「広く浅く」という表現は、持っている知識や、関わる人間関係の幅や量について語るときに使われる。

知識にしろ人間関係にしろ、当時の私にとって「広く浅く」世界を広げていくのは容易いことだった。逆に一つのことについて深く知ろうとしたり、数少ない友人と関係性を深めていくことの方がずっとエネルギーが必要だった。

それが個人的な性格や気質に起因するものなのか、社会全体として「広く浅く」を後押しする状況があったからなのか。当時の私にはそんな疑問を持つ頭すらなかったし、今でもその答えは分からない。とにかく、放っておいたら「広く浅く」になってしまいそうな自分がとてつもなく嫌だった。

当時の私も、誰にも打ち明けず自分の中にとどめておこうとした思考を、未来の自分に無理やり引っ張り出されてさらされるなんて、思ってもみなかっただろうに。ごめんね。

いや、あの子のことだから「え、別にいいけど。色んなことを自分なりに考えて、書く必要があると判断したから書いてるんでしょう。謝らなくていいけどちゃんと自信持って書いてよ」とか言いそう。かわいくない。

「広く浅い」ことは「薄っぺらい」と揶揄されたりもする。人より優れている分野がなく、なんのとりえもない、ということとよく結び付けられる。

人間関係についても、あの人って誰とでも仲良くするけど、うわべだけの付き合いしかしてないよね、そんな風に言われてしまったりする。

逆に「狭く深く」なりすぎると「オタク」とか「視野が狭い」と言われてしまったりもする。

でも、誰にも負けない知識や技術を身につけた分野が一つでもあれば、それで身を立てることができる。

今の世の中は分業制によって成り立っている。各自で自給自足の生活をするのではなく、誰かが食べ物を作る代わりに、他の誰かは衣服を作って、さらにそれを運ぶ人もいて、そういう風に役割分担をして日々生活している。

だからひとりひとりに求められるのは、一人で衣食住の全部をこなすことではなく、他の人より得意なこと、他の人のためにやってあげられることを持つこと。

畑仕事も料理もお裁縫も家を建てるのも全部得意になる必要はなくて、そのうちのどれかひとつでもできれば、他のことが得意な人と助け合って生きていける。

工業が発達し、規格化された同じものを量産するようになると、仕事を小さく細分化すればするほど、生産性も質も上がる。一人の人間が覚えることが少ないほど、作業スピードが上がったり、仕事の腕も上がりやすくなるからだ。

日本が世界に誇る「浮世絵」。今でこそ高価な美術品になっているが、当時の値段で1枚当たりかけそば一杯分、今でいうとファストフードくらいの値段で、庶民も気軽に手にすることができた。

浮世絵がそれだけ安価に量産できたのは、分業制によって作られていたからといわれている。下絵を描く「絵師」、下絵を木版に彫り写す「彫り師」、紙に摺り上げる「摺り師」。それぞれが一つの工程に集中し、技術を磨き上げることで、高品質な浮世絵を量産することができたわけだ。

ただし浮世絵を生み出すうえで忘れてはいけない職業がもう一つある。それが「版元」。

版元は今でいう出版社のような役割で、どんな絵を描くかの企画を考え、絵師・彫り師・摺り師の全行程をディレクションし、作品の宣伝や販売までを担っていた。

職人に比べれば、一つ一つの工程の技量は劣るかもしれない。しかし、作業工程をある程度理解し、専門的な知識を有していなければ、版元の仕事は務まらなかっただろう。

おそらく職人たちと版元との間で「あの版元は職人の仕事をなんもわかっちゃいねえ!」とか、「あの職人は古臭い技術にこだわるばっかりで、全然時代に合ってねえんだよ!」とかそういうバチバチもあったんじゃないかなと、私なんかはすぐ想像してしまう。

それだけでなく、人気の出る作品を作るためには、流行を先読みし、どんな風に宣伝して販売するか、それを考えるアイデアや教養も必要になる。さらには、新たな才能の発掘、文化人との交流、幕府の統制をかいくぐる賢さなど、求められる能力は幅広くに及んだ。

参考:「【日本の教養・日本美術の時間】あの浮世絵が欲しい!ー版元の販売戦略」TSUMUGU JAPAN ART & CULTURE

版元に求められる能力が「広い」ことは言うまでもないが、でもだからといって「浅い」と言い切れるだろうか。それは今まで私が出会ってきた人生の先輩方にも言えることで、広いと感嘆させられた人はすべからくみんな、深くもあった。

なんだ、結局「広くて深い人」を目指さなければいけないんだな。世の中に出てみて痛感した。それでも私は、狭く深くなろうとすることをやめなかった。

「広くて深い人になりたい」と考えているとき、いつも頭の中には、泥まみれ汗まみれになって、シャベルを持って穴を掘っている自分の姿が浮かぶ。

シャベルを地表に撫で付け続けるより、1つの場所を深く掘り進める方が遥かに大変というのは明白。だとしたらまずやっておくべきなのは、やっぱり狭く深く掘る方法を身につけることだと思った。

深く掘る方法を身につければ、自分の世界を広げたいと思ったとき、大体同じ掘り方をすれば、また深い世界を増やしていける。掘ることができなかったとしても、自分が掘ってきた世界と似た世界が広がっていると想像するだけでもいい。

私は大人になってから、美術館に行くのが趣味になった。それまで絵なんて一つも興味がなくて、ゴッホとモネの区別も危ういくらいだったのに。

子どもの頃から絵を描くのはてんでダメ。でも音楽が大好きだった。物心つく前、ファミレスのBGMに合わせて体を揺らしていたのを見た母は、私を幼児音楽教室やリトミックに通わせた。

その後もピアノを習わせてもらったり、吹奏楽をやったり軽音楽をやったり、大人になるまで音楽漬けで過ごしてきた。

ただし、音楽好きなのと同じくらい練習嫌いだったので、どれ一つとして身を立てるほどにはなれなかった。でも身につけた感覚や知識は、好きな音楽を理解するときに役に立った。

音楽を理解するっていうのは、曲を作った人がそこに込めた思いを自分なりに解釈しようとして、なにかそこから心が通じたと思えるものを見つけることだと思う。

それは、美術館で絵を見るときも同じだ。美術館の中に並べられた作品をじっと見て、作者がそこに込めた思いをなんとか読み取ろうと、遠くから見たり近くから見たり、右から見たり下から見たり。

音楽でいう声調やリズムにあたるものが、絵画における色彩や構図なのだろうな。どの楽器で演奏するかは、どんな技法で描くかに似ているな。美術館に通ううち、そんなことを思うようになった。

どうしてその色彩や構図、技法を選んだのか分からないから、本を読んだりしてみる。本を読んで理由が言語化できるようになると、好きな絵がどんどん増えていった。

好きな絵ができると、それに似た絵が気になるようになる。「あなたもあの作品を知っているの?」と、ふいに語り掛けたくなる。

私たちは「狭く深く」「広く深く」と、単純なものさしで測ってしまいがちだが、実際のところ世界は寸胴のように広がっているわけではない。どちらかといえば木の根っこのようで、分岐してつながり、絡み合っている。

同じ時代、同じ場所に生きた誰かに影響を受けているもの。異なる時代や遠い国、全然違うジャンルの影響を受けているもの。全然関係ないように見えて繋がっているもの。影響力のあるものとそうでないもの。

そういうのが複雑に絡み合って、大木の根のように張り巡らされてきていて、その根の先っちょのほそ~い毛が、今を生きる私たちの目の前に起きる、ひとつひとつの物事なのだろう。

世界が寸胴のように広がっているなら、寸胴の深さに対してどのくらい掘れたかとか、寸胴の直径に対してどれくらい広げられたか、みたいな話もできるだろうけど、私たちは実のところ、全貌を知る間もなく、大木の根のように複雑に絡み合った中をかき分けて進んでいるだけなのだ。

結局はお釈迦様の掌の上で走り回っているだけなのかもしれない。でも、そうやって走り回る私とあなたがいるから、世の中は回っている。お釈迦様はお釈迦様の掌の上を走ることはできない。

広いも深いも浅いも狭いも、比較でしか意味をなさない形容詞だ。基準となる比較対象や、理想とする状態があってはじめて、広いとか浅いとか深いとか狭いとかの話ができる。いや、形容詞って全部そういうものかもしれない。

理想の自分に対して今の自分がどうなのか、とか、前の自分と比べてどうなのか、ということを考えることは、何らかの意味が生まれることもあるかもしれない。でも、その比較対象が世間の平均である必要はないし、他の誰かと比べてどうか、ということにはあまり意味がないのではないか。

1人では抱えきれず、誰かに打ち明けることもできない思いを、ノートに書き殴っていた私に、私はこう言いたい。人と比べてもしょうがないよ。自分にできることを精一杯、好きにやろうよ。

コンビニでクエン酸の飲み物を買って飲みます