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【先週と今週のよかったこと】20181006,7,8-1014

ノートのタイトルに先週と今週ってつければ、更新の遅刻が無かったことになりませんか、なりませんね。
O・(お詫びのしようもございませんと頭をた)L・(れる)略してOLです。

先週の3連休、今週の土日と映画を3本見たのでそのお話をします。今年はどうも週末に映画を見ることが多くって、最近は映画の感想ノートの様相ですが、OLの土日なんてその時々にしたいように過ごすんだから、まあそんなもんだよね。

先週と今週のよかったこと
・クレイジーリッチ!を見た(ヒューマントラストシネマ渋谷)
・イコライザ―を見た(hulu)
・イコライザー2を見た(品川)

■クレイジーリッチ!を見た

これです。
お金持ちのお話なのですこぶる景気がいいです。景気良過ぎて常に札束でビンタされる感覚が続き頬が腫れあがり、倫理観と金銭感覚を失くします。

中国系アメリカ人で若き経済学教授の主人公が、軽い気持ちで彼氏のおうちにいってみたら実は彼氏がどえれえ金持ちの坊ちゃんで、どえれえ「家」をめぐる騒動に対峙していくことになる、王道のラブストーリー。王道というか古典的ハリウッド映画(※)の文法通りのラブストーリーだったと言う感じ。平和な日常に事件が起きて平衡が崩れるけど、最後はハッピーエンドだし、この物語が一つの完結した雰囲気を出すのは男女のメロドラマの愛(と義母と娘の認め合い)だから。

古典的ハリウッド映画をハリウッドで、オールアジア系キャストで制作してウルトラヒットしているというところが今作の画期的なところのひとつなんだと思う。

今作を貫く「家」のありようについて、「家」という共同体を永く永く、末永ーーーーーーーーーーく続けていくことを目的とした営みの強さと息苦しさには、私たちはいやでも覚えがある。あの精神性は自分が暮らしてきた田舎特有の、家と家の結びつきを優先する閉鎖性と地続きになっているものだ。
そうやって脈々と「生きてきた」家は一匹の長い蛇のようで、価値観の新旧や個人/集団の幸せのはかりかたひとつで、おいそれと息の根を止めることはできない。良い悪いは別として、いろいろと飲みこんできたんだろうから、この蛇は。

とはいえレイチェル(主人公)が最後に居場所をこじ開けたことで、この蛇の頭を首元から二股に割いて、次の新しい化け物にしていく気もする。双頭のクレイジーリッチな蛇が世界に首をもたげそう。

人生の友にオークワフィナがいてほしい(総括)

行ったところ:
ヒューマントラストシネマ渋谷
パンフレットを売っている売店のポップが手作り感のある切り絵で出来ててかわいかった。

■イコライザーを見た(hulu)

イコライザーとは、デンゼル・ワシントン氏演じるホームセンター店員の気がよく穏やかなおじさんが、実は凄腕の元CIA工作員で、世の道理から外れた人間たちを大変に容赦なく(マジで容赦なく)裁いていく、熱い人情アクションムービーです。

見どころは「やさしいオジサンかと思ってたら鬼のように強くて怖いオジサンだった」デンゼルの、敵を皆殺しにするときの虚無の眼差しと、理不尽な環境のために夢を追いかけられない若者をすくいあげる大人としてのデンゼルの熱い人情です。とにかくデンゼルワシントンが一番カッコいいのを徹底的にわからせてやるからな、という圧力を感じるカッコいい画の連続(カッコよければカッコいいほどボコボコに壊滅させられていくロシアマフィアのみなさん)であっという間に見終わりました。

こういう映画、大体ロシアマフィアがボコボコにされてるよね。ロシアマフィアが勝つ映画って逆にあるのかな……。

■イコライザー2を見た。

と、いう前述のイコライザー(無印)を見たのが一週間前で、満を持して先の土日にイコライザ-2を見たのです。2も激熱な人情アクションムービーだったけど、主人公マッコールさんのやばさが際立ってました。
本作のマッコールさん、かわいいと怖いと強いの境界線をジェットコースターばりに急発進急降下急上昇するので大変です(観客の気持ちが)。

アシュトン・サンダースくんかわいすぎない?(総括)
かわいすぎたので早いところムーンライトも観ます。

久しぶりに舞台も観たいなと思いつつ、映画館で延々と流れる予告編を浴びまくるとまた映画館に来なくっちゃ!と言う気持ちになるのでやめられないですね。

※については下記の引用文を参考にしています。

※北野圭介氏著『ハリウッド100年史講義 夢の向上から夢の王国で』P.65-68参照。

これまた単純化を恐れずにいえば、出来事の連鎖としての物語は、古典的ハリウッド映画においては、
  平衡→事件→解決
というかたちでフォーマット化されるようになったと言えます。(P.65 )
 例えば、古典的ハリウッド映画が好むハッピー・エンディングというものの扱いについて、映画史研究はかなりその扱いに苦労してきたという点に注目することができます。慎重に見ればすぐわかることなのですが、「ハッピー」な「エンド」を迎えることは極めてまれです。正確に言えば、物語の最終場面で訪れていることは、エンディング=「終了の効果」であって、「(きちんとした因果的)終結」ではないことが多いのです。
(中略)
実は、「終了」の「感じ」や「雰囲気」を与える仕掛けは、本筋の物語と寄り添うようにして語られる男女のメロドラマ的愛の成就がほとんどです。(中略)
つまり、多彩な物語を織り上げる古典的ハリウッド映画には、実のところ、メロドラマ的な愛の物語がいつも深層の基調として流れていて、時間がくれば、その成就のクライマックスが起こす強力な情感の喚起力をもって、鮮やかに物語に幕を下ろしてしまうことになっているとわたしたちは観察できるのです。(P.66-68)

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