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風が強く

吹いています!

っていうあれ、今年はニューイヤー駅伝でも出てきたもんだから「ナンカチガウ……」って正月早々テレビの前で変な顔しました。

そんでそんなことをウッカリTwitterでつぶやいたら同じこと感じた人がいらっしゃってRTされて、でもこう駅伝観戦ガチ勢っぽい雰囲気だったから「そんな真面目に見てないアカウントですごめん!」ってなっていました(謎)。

別にあのアナウンスは箱根の専売特許ってわけではないのにね。なんででしょうね。

『風が強く吹いている』/三浦しをん

アニメにもマンガにも映画にもなった超有名小説!! なので紹介もいらない気はするけど一応すると、たった10人、しかも長距離未経験者が半数以上という寄せ集めもいいところのチームで箱根駅伝を目指す物語です。
めっっちゃ青くて等身大で、とても綺麗なお話です。スポーツものだけどスポ根的なあれはないし、ほんとただただ等身大でしんどくて綺麗なお話です(2回目)。

わたしは対外的には文章を書くのが好きですとか言ってここまで生きてきたんですけど、そうやって言葉で表現するという行為は、好きという言葉で形容できるものではないような……? って思っていて。

人間は誰しも、好きなものや趣味のひとつやふたつやみっつを持っていると思うんですけど、『好き』で形容できるものって、趣味と呼べるものって、あれば生活がより豊かになるけど、なくても死にはしないというか、あくまでおまけみたいな、そういう軽い何かみたいな気がしてて。でもなんか、その域に収まりきらない存在になってきたなと。

それは、この『好き』に付随した芯というか、軸みたいなものができて、それを自覚してからは、より『好き』の枠にはまり切らない存在になったというか、その枠に押し込めてどうにかできる気がしなくなって。自分で飼い切れない願いになった。

書くことが好き。言葉で表現することが好き。そういう表現を自分がして、だれかのそういう表現を摂取して救われてきた。だれかを救えるというその言葉の力に魅入られて、その力をただ信じたいと願うようになって。

そうなってくると、しんどくなる場面が増えて。そして、具体的に就活を通して、そんな軸を持つだけ無駄なのかな、と絶望した。

書くことで生きてきた。言葉に救われて生きてきた。
だから自分に、相手に正直な言葉を紡ぎたい。誰かが不幸せになる嘘はつきたくない。それは、わたしが言葉の力を信じるために必要な誓いだと感じているから。それを破ったら、わたしの言葉に価値がなくなるのはもちろんのこと、誰かの言葉を信じられなくなってしまうから。

建前や見栄は、後でそれがほんとうじゃなかったと知れた時に相手を不幸にするものだと思っているから1ミリだって使いたくない。それを封じられた結果、相手を傷つけるしかないのなら、正直に最短距離でぶつけて、そこでさようならするならした方が、たぶんお互い幸せになれる。

だけど外から見たら、わたしのこのちっぽけなプライドも趣味の中っていう括りだから、そこに重きを置いて社会に出たいってそれが分からないと言われて、そんな甘えた思考なら社会に出てきても信用ならない、いらない、って、実際にそんなことを言われたことがあります。

被害妄想が入っているのも、「そんなに譲りたくないのなら、それだけで周り説得できるほどのもの出してねじ伏せてみろよ、出来ないのにわがままばっか言うんじゃねえ」って思われることを言っているのも自覚しているつもりです。それでも考え方を変えるなんて出来っこなかった。泣いている、傷ついている事実が依然としてあるのに、その傷ついている自分を無視できるほど、わたしは感情を殺すこともできなかった。

自分が救われてきたものを、自分の目先の利のために穢したくない。
でも汚さないと、踏みにじらないと社会に拾ってもらえない。
拾ってもらえないなら身体的に死ぬでしょうね、そう遠くない未来で。

こんな苦しい好きがある? こんな苦しい思いしてまでする趣味って何?

誰か助けてよ。もうこんなの捨てたいよ。

……どうせ捨てられっこないのに?

ということをね、ここ1年ずっと抱えていたんです。

そんな時に出会ったのがこの物語でした。

アニメから知った口で、アニメ→映画→原作という順番で履修したんですけど、原作小説の威力がやばかったです。もうほんとうにめちゃやばかったです。相変わらず語彙力がないね。

物語の序盤にこんな一節があります。

「俺にとって走ることは、健康のためでも趣味でもない」
清瀬ははっきりと言い切った。「たぶん、走にとってもそうであるように」
走はうなずいた。ではなんなのか、と問われても困る。ただ、たとえばアルバイト先に提出する履歴書の趣味欄に、「ジョギング」と記入することは、どうしたってできないだろうと思うのだ。

そして、これのアンサーが終盤で出てくるんですけど、ここのあれはぜひ原作読んでその流れの綺麗さとしんどさを体験してほしいので引用はしないんですけど、走くんは走るとは生きることだ、と辿り着きます。

ここに辿り着いたときに、自分もそれを追体験したみたいな感じになって。

自分が譲れない部分は、それをやるのが、守るのが生きることと同義だから。今まではっきり言葉にならなかった何かに、言葉という形をくれた。


この物語を読んでもう一つ、救われた部分がありました。

それは望むことや譲れないことと才能の有無は関係ない、と教えてくれたことで。才能がなくても、何もなくても、それを望み愛する権利は誰にだってある。目指す先はひとつじゃない。届かなくても愛していい。愛することは誰にでも等しく許される行為だと、示してくれた。

届かないなら、諦めなきゃいけないと思っていた。諦めなきゃ大人になれないと思っていた。届かないものはさっさと捨てられてこそ大人で、いつまでもしがみつくのはただの子どものわがままだと思っていた。捨てられないのは単なる子どものわがままだから、捨てるときにどれだけ苦しくて辛くても、その苦しみを「苦しい」と言ってはダメだと、大人になれないのだと思っていた。

届かないのに守って貫くのはかなりしんどいし、その苦しさも物語の中で何度も出てくる。それでも、やっぱり守っていてもいいんだと、それも許される行為なんだと、物語を通して、やさしく示してくれた気がした。

まだ生活基盤が何もできていない状態で、そうやって何か譲れないものを作ってしまうのは、身動きを取りにくくするし、わがままにしか見えないし、その前に明日生きるためにどうするんだ、とか自分の理性的なあれが突っ込んでいるのも聞こえるから、むしろ不幸だ、これは呪いだってずっと思っていました。だからこそ絶望もした。だって、その呪いにとらわれていない人の方が器用に世の中渡っているから。器用に世の中渡るには捨てるしかないって、客観的事実がいくつも言っていたから。

でも、不器用でも、自分が好きなものを、愛したいものを、信じたいものを選んで生きていきたいと、この物語を読んで以降、願えるようになりました。

不器用でも、ぶつかる壁が多くても、未来に後悔したくないから。

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