合理的な生き方に不合理の余地を残す
以前からその傾向は強まっていると思いますが、
「合理的であること」に対する想いが強まってきているように思います。
「部活休むのに連絡するのって意味ある?最初から自由参加にすれば?」
「遊ぶことに何の意味があるの?その時間に経営の本の1冊でも読みなよ」
「テストに出るとこ、どこですか?」
間違ってはいないと思います。
それは、世の中が合理的に生きることを是とする力が大変強いからです。
コスパ重視、も合理的であることの1つの結論です。
他にも、合理的であるがゆえに生まれる結論の1つが
「君はいつまでお金に縛られて生きるの?お金にお金を生ませるんだよ」
という言葉ですね。
(ある意味でこういう言葉は正しいので始末が悪いです。)
ただ、そろそろ合理的に生きることの価値が落ちつつあります。
合理的であることには余白がないのです。
コスパにも、最短で学ぶことも、部活の参加についてあれこれ考えることも、
余白0です。
だから、そこにあるのは「正解」か「不正解」です。
(あるいは0−1ともいえます)
科学的な考え方に近いです。
面白くないのです、0−1は。
結論が見えるので、つまらなくなってしまいます。
だからこそ、不合理であることに身を任せて、余白を楽しむことが
重要になる時代がやってくると信じています。
(もともと余白を持って生きてきた方には全く響かない言葉だと思いますが、余白0で生きてきた方は思った以上に多いものです。)
だからこそ、
スタバでフラペチーノの新作のショートサイズを頼んでみる とか
テスト範囲ではなけれども、気になったところの本を読んでみる とか
いつも適当に遊んでいる部活でも今日だけ一生懸命やってみる とか
そういう、全く合理的じゃない経験が重要になってくる時代がやってくるのだと思います。
とりあえずやってみるのに良いのは
別に行かなくてもネットで雰囲気わかるのに、わざわざそこまで行ってみる
などでしょうか。
こういうもので何をしたらいいのか、というのは、余白をつくるのが上手なタモリさんのような"遊び人"が得意なのでしょうね。
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