見出し画像

11/7は#建安竹林の七人の日2022 #建安七子 #竹林七賢

 こんにちは。
五胡十六国入門」です。
 本当だったら↑の自主企画、同人誌発刊した上で臨むはずだったんですがね! やはり締め切り……人間には締切が必要……。

 というわけで、上記イベント。それぞれの時代の文人について調べているわけですが、気になったのは「どのタイミングでこの七人組になったのか」。これを調べたので、勇み足よろしく紹介します。

建安七子

 その出処は、曹丕の書いた論文。曹操から家督をついで即漢の献帝から皇位を奪った彼は、文学にも多大な造詣を残し、「文学は国の要!」くらい言っています。その前段にて、以下のように語りました。
 今之文人,魯國孔融文舉,廣陵陳琳孔璋,山陽王粲仲宣,北海徐幹偉長,陳留阮瑀元瑜,汝南應瑒德璉,東平劉楨公幹。斯七子者,于學無所遺,于辭無所假。咸以自騁驥騄于千里,仰齊足而並馳。
(昨今の文人で特筆すべきは、孔融、陳琳、王粲、徐幹、阮瑀、應瑒、劉楨である。この七なる偉人は学びに遺漏なく、著される言葉に誤りもない。それぞれが奇才であると自認しており、またお互いが並び立つにふさわしい相手だと思っている)
 出典は全三国文文帝曹丕五巻。文学やろうってんならこれぐらいバチバチにやろうぜってみたいな感じで繋がっていくわけですが、ともあれ曹丕は建安七子と同時代人。なら建安七子というカテゴライズは、すでに同時代的なものであったといえるのでしょう。

竹林七賢

 こちらはやや趣を殊とします。文献に残る最古は東晋のひと袁宏が著した『名士伝』。七賢最年少の王戎が 305 年に死亡、対する袁宏の生没年が 328-376 年ですから、世代に差があります。しかも本当に袁宏がはじめに言ったかどうかも、正直怪しい。
 とは言え、ここで七人にまとめるのには後世的な演出があったろう、とは言えるのです。というのも、竹林七賢。建安七子と違い、全員が一堂に会したことはないと言われています。あとけど何故かひとかたまりになっている。しかも、七人組の中にそれぞれ親(阮瑀)と子(阮籍)がいる。こんなのどう考えても自然に呼ばれるはずがないのです。
 ただ、その「誰か」は不明。一番近いのが袁宏とわかる、程度のもの。まぁたぶん琅琊王氏に絡んだ人物だと思いますけどね、王戎ひとりの世代が不自然ですもの。東晋初期は琅邪王氏の天下。なので強引にぶっこまれたのでしょう。

こういった来歴とかは、いわゆる「受容史」に当たるのですよね。とある歴史事項が、どのようにして人々に知られるようになったか。こういったテーマも調べていて楽しいです。三國志だったら三国志演義の存在外せないよね、みたいなやつですね。
 あらゆる歴史事項には、みな受容史が存在しています。七子も七賢も、そのへんに詳しくなりたいものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?