映画「福田村事件」~正義は呪いである
映画「福田村事件」は「定住者」と「流浪の民」の関係性の中で排他的になっていく人間の物語だったかな~
「流浪の民」とはこの映画では日本人でない人々や行商人のみならず、不倫により家族共同体から本来追放されかかる妻と植民地である国で悲惨な体験をして罪悪感にさいなまれる夫、不倫相手である船頭の男も含まれる。
正義とは共同体を守ることならば゛、悪とは共同体を乱すこと。もちろん、正義とは呪いである。
だから、創世記のアダムとイヴも善悪の木の実を食べることは呪いにかかることだったのではないだろうか。呪いによって人間は土地を持つようになった。
呪いを解くのは赦し、その人の痛みに言葉にならずとも寄り添い続けること。呪いを解くのは正義ではない。正義で呪いを解くならば、呪いで呪いを解くことになってしまう。
聖書の放蕩息子もイエスの奇跡も呪いからの解放である。
だから、映画の夫も妻も赦し合うのだ。正義は声高だけど、赦しはとても静かでかき消されてしまいそうだ。
映画を見ていて、そんなことを思った。
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