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東風よ、吹け

 時は文永11年(西暦1274年)、季節は晩秋。場所は、博多沖より壱岐へと向かう海上。時分は夜更け、丑三つ。

 荒波に揉まれる小舟の上、寒風に吹かれながら、くつろいだ様子で酒を舐める優男と、力強く櫂を漕ぐ偉丈夫の姿があった。

「法眼様」

「その呼び名は止めくれ」

 漕ぎ手の呼びかけに、優男は答えた。

「では、なんとお呼びすれば?」

「そうさなあ……」

 優男は、杯を傾け、澄酒をあおる。激しく揺れる船上にありながら、杯の中に浮かぶ月影は一糸乱れず。

「太公望、諸葛亮孔明、安倍晴明……多くの名で呼ばれてきた。まあ、好きにすればいいさ」

 だが鬼一法眼はだめだ、最近に過ぎる。含み笑いをこぼしながら、優男は付け足した。

「真に……来ますか?」

 話の腰を折られつつ、偉丈夫は本題を口にする。大陸の奥地より日本を目指して、蒙古の軍勢が迫っている、という噂だ。

「来るとも、牛若丸は。来てもらわねば困る。あやつが盗んでいきおった六韜りくとう、いい加減、返してもらわねば、な」

 偉丈夫は、櫂を漕ぎながら、ため息をつく。この男と話せば、いつもこうだ。肝心なところで、狐につままれたがごとくなる。

「来おったぞ」

 優男は、杯で前方を指し示す。夜の帳の向こうから、見上げるような威容の軍船が三隻、迫ってくる。造りからして、鎌倉に連なる武士のものではない。高麗船だ。

「今頃、対馬は地獄絵図よ。この調子では、壱岐も分からぬ。こやつらは、太宰府を探りに来た哨戒船といったところか」

 どこか他人事のような優男は、瓶子より杯へ澄酒を継ぎ足すと、一気にあおる。この男に関わると、いつもこうだ。話の上のはずだった事物が、いつも忽然と眼前に現れる。

「斬れ、武蔵それがし。船の二つ、三つ、斬れぬようでは、ここから先の話は始まらぬ」

 名を呼ばれた偉丈夫は、櫂から手を離すと、小舟の舳先に立つ。腰に差したる、体躯に相応しい巨太刀の柄を握りしめた。

【続く】


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