なんとも言えない寂寥感

毎週のように友達の家へ遊びに行き、毎週のようにバスケをしに行き、毎日誰かと悪ふざけをしていたはずなのに、今となっては職場と自宅の往復、昔の知り合いはどこで何をしているのか分からない。分かったとしても、俺の知らない新しい知人と忙しない日々を送っている

俺の入り込む余地はない。席がない。俺の席はどこにある?

次第に皆パートナーを見つけ、ますます独り身の肩身が狭まっていく
四捨五入すれば既に俺も30歳。"若いうちは無限の可能性が広がっている"けれど実際にその可能性を手中に収められるやつと収められないやつがいるのも確かだ

このじめじめした、本格的に始まった夏の感じ。小学生の頃の、まだ何も知らないが故に心配事も何もなかった日々を思い出す。皆、どこかへ行ってしまった。変わったのか、興味関心が

まだセミの声は聞こえ始めてはいないな

コンセントで動くタイプの、後付けのエアコンのやかましい音を聞くと、どうしてもニート時代にやっていたティアキンを思い出してしまう。10時に起きて、遅めの朝食を摂って、簡素な昼飯を食って、その後はずっとゲーム。あまりにも暑いから、やかましいクーラーをつけて、3時のおやつにアイスクリーム。親父が帰ってきたら夕食。風呂から上がればまたゲーム。寝る前にティアキンのゲーム実況を観ながら眠りにつき、また翌日10時過ぎに起床、この繰り返し

多分、あれは夏休みだったのかもしれない

思えば、高校くらいから、あまり気持ちが休まった試しは無かった。宿題は膨大で、効率よくこなさなければあっという間に時間が無くなる、まるで、のろまに休む権利は無いかのように。

"高校が一番楽しい"という言説には一度も共感したことがない。高校が舞台のアニメやドラマを観ていても、あまりにもゆったりした日々で、まるで自分の高校時代が異常なほど忙しかったのではないかと錯覚を起こしてしまいそうになる

何かしらの強迫観念に駆られて休めないマラソンを走っていたようだ。立ち止まったからと言ってそれが一体何だというのか。そもそも誰のためにこのマラソンを走っているのか。誰かを負かす必要があるのか

人生100年時代。今、26/100である。こうして色々考えている内に、果たして色々考え始める年齢なのだろうかと思うこともある。まだ26とも言えるし、もう26とも言える

そういえば3日前だったか、4日前だったか、紙幣が一新された。まだ一度もお目にかかれたことはないが

昨日の電話、もう関係はこれっきりかとも思えるし、1週間後に連絡すればまた何事もなかったかのように会話が始まるようにも思える
思うに、数分のうちにあれこれ考え過ぎなのだと思う。だから、些細な出来事に異常なまでの理由付けをし、このままではいかんと軌道修正に躍起になって、そして疲れ、全てを無に帰したくなるのだと思う。一日経てばこうも考え方も変わるのだから、そうすぐに結論を急ぐ必要はないのではないだろうか

もし可能なら、一度食事にでも行ってみたい。一度きりの関わりではなく、今後も何度か顔を合わせても良いかなと思える人がいるだけで、気分は前向きになれる気がする

今度、四国の鶏肉屋へ行ってみたい。友達とでもいいし、あの人とでもいい。やはり誰かと一緒に何かをするのは良いものだと思う

俺から動いたことで、少しずつ変化が訪れているような気がする

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