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【ショートショート】凍った星が溶けたら

凍った星をグラスに。
あの夜、君は穏やかにそう呟きながら、オレンジの小さな金平糖をひとつ、レモンソーダのグラスに落としたね。
星はまるで潜るように、ソーダの海に沈んで、彗星のしっぽによく似た、細かい泡の筋を作っていた。

あれは、何という名の店だっただろう。
ピンクの花束の水彩画が飾られた、山小屋風の、あまり大きくないカフェ。僕達は、気乗りのしない、でも必要な別れ話をするために、その店にいた。
凍った星、まるであなたと私みたい。
溶けそうで、でもなかなか溶け切らない、グラスの底の金平糖に、君はそう語りかけたね。
そうだね、いつか別れなきゃいけないって、わかっていたのに、ここまで引き延ばしたもんな。
コーヒーのカップを、唇に運ぶ直前にそう言った、僕の声は少しだけ、冷たく響いていたかもしれない。

僕達には、それぞれの家庭があった。
君には、少し年上の、大学の先生をしているご主人。
僕には、食堂でパートをする妻と、息子と娘がひとりずつ。
それでも惹かれあったのは、自然なことかもしれないけれど、手をつないでしまったことは、今思うと、明らかに僕達の間違いだ。
でも、それならいったい、どこで止めればよかったのだろう。
夜の駐車場で、おずおずと、互いを抱きしめたとき?
それとも、唇か体か、どちらかを重ねた直前に?
いずれにしても、止められなかった僕達が悪い、ただそれだけ。
一線を越えずにはいられないほど、強く惹かれあった、僕達の純粋な想いは、ただの不倫に成り下がってしまった。

凍った星が溶けたら、店を出ましょ。
君はそう言うと、少し濁ったレモンソーダを、細い銀色のストローで、くるくる回した。
だいぶ小さくなった、オレンジの金平糖が、その動きに合わせて揺れていたね。
そんなことしたら、星が早く溶けちゃうよ。
条件反射のようにそう言った、僕の顔を見つめて、君は不意に、小さな涙を落とした。
そうよね、最後の時間くらい、無理して縮めなくてもいいものね。
君の小さな声と、一粒の涙が、レモンソーダの泡の中に溶けていく。
それは、皮肉なほど、美しく静かな光景だった。
この店を出たら、僕達はもう、二度と会うこともない。
言葉にできなかった別れ話が、いつの間にか、ふたりの間で完結していた。

けれど、僕達の間違いは、別れたくらいでは到底、清算できるものではなかった。
あの夜、家に帰った君の命を、待ち構えていたご主人が、ナイフで奪ってしまったのだから。
大学教授まで上り詰めた人でも、奥さんに不倫されちゃうのね。
何不自由のない暮らしをさせてもらってたのに、酷い奥さんだこと。
世間がおもしろおかしく騒ぐ中、僕ができたのは、君のことなど知らないふりで、妻と子供達との生活を続けることだけだった。

凍った星をグラスに。
そう呟いた君の声は、どうしてあんなに穏やかだったのだろう。
泣きもせず、怒りもしない、子供をあやすようなやさしい口調。
君はもしかしたら、僕と別れた後、自分の命が消えることを、どこかで感じていたのだろうか。

ゆっくりと閉じたまぶたの裏に、オレンジの金平糖が、ソーダの中に溶けて消える、最後の光景が浮かんできた。
遠くから、聞こえるような気がするのは、僕の名を呼ぶ妻の声か。
申し訳ないけれど、今はどうしても、それに応えようとは思えない。
僕は、少し濁ったレモンソーダの残像に、君の笑顔を探しながら、深い深い眠りに落ちていった。

〈了〉

◇◆◇

ずっと参加したくて、でも締め切りに間に合わずにいた、小牧幸助さんの「シロクマ文芸部」。

んもう、どうしてもどうしても、小説を書きたくなっちゃって。
久しぶりでデキは今ひとつだけど、参加することに意義がある!
そう鼻息をフガフガさせながら、書いてみました。

小牧さん、企画を続けてくださって、ありがとうございます!

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