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日の差し込める所 中原道夫句集『九竅』を読む(9)

「銀化」主宰・中原道夫の最新句集『九竅』(2023年9月発行)を毎月一句ずつ、24回に亘って鑑賞していきます。今回はその第9回です。

秋口とふ日の差し込める所かな
           中原 道夫

中原道夫句集『九竅』所収

 わが家にも猫の額ほどの小庭がある。ふだん手入れなどしないものだから、夏の終り頃には草茫茫の見るに堪えぬ態となる。
 それでも年二回、美しいと感じる時季がある。隅に植えた侘助の綻ぶ晩冬から初春にかけての頃、そして八月頃のいわゆる「晩夏光」の時季だ。さしたる見ものの無いこの小空間にあって、そこへ差し込む盛りを過ぎた陽光の美しさは私のノスタルジーを揺さぶり、琴線に触れずにはおかない。

「俳句とは記憶の抽斗を開ける鍵のようなものだ」とは小川軽舟(中公新書『俳句と暮らす』より)の言だが、昭和という時代に少年期を過ごした者は、みな掲句に何某かのノスタルジーを覚えるのではないだろうか。
 考えてみれば不思議なもので、掲句には「日の差し込める所」とあるだけで、どこで誰が何をしているのか、朝なのか昼なのか夕方なのか、といった具体的情報は一切示されていない。にも拘らず私が、草茫茫の小庭に差し込む薄橙色の晩夏光を、ある種の切なさとともにありありと思い浮かべてしまうのは、記憶再生装置としての俳句の働きによるものにほかなるまい。

 掲句が秀でているのは、このような俳句のしくみをうまく活かしているからだけではない。この句はもっと深い。上五が甚だ曲者で「秋口とふ」がどこへ係っていくかにより、この句は少なくとも三通りの解釈が成り立つ。
「秋口とふ→日」と読めば「日差しそのものが秋口だ」と解釈できる。また「秋口とふ→所」と読めば「日の差し込んでいる場所こそが秋口である」という意味になる。第三の解釈は、上五で切る読みだ。「(こういったことがまさに)秋口ということなのだ」と上五で結論しておいて、そのように感じ得た原因を中下で叙述しているとみる読み方である。

 句を読んで、読み手の裡に或る記憶が蘇る——その記憶に最も相応しい解釈を採ればいい。私の場合「秋口」を感じることは特定の場所(わが家の小庭や少年期に遊んだ原っぱ等)の記憶と不可分であるため「秋口とふ→所」という第二の解釈を採用したまでのこと。読み手の数だけ正解がある。(了)

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