忘れない


#創作大賞2023 #オールカテゴリ部門

小学校に入学するとき、お父ちゃんは腕時計を買ってくれました。赤いベルトの文字盤に白雪姫の絵が描かれたものです。
私はうれしくて、一日中腕時計をつけていました。
コチコチと耳をすまさなければ聞こえない小さく時を刻む音が、私を幸せにしてくれます。
「お父ちゃんはちいちゃんには甘いんだから」
 お母ちゃんはまだ腕時計なんて必要ないんじゃないかと不機嫌そうに言っています。
「いいじゃないか、よく似合っているんだから」
 お父ちゃんは私を膝の上に抱いて頬ずりをするので、髭がチクチク刺さって私は困った顔になってしまいます。
 そんなことはお構いなく、学校はどうか?勉強や友達ができたのか?お父ちゃんはいろいろ聞いてくるので、腕時計のコチコチの小さな音を聞いている暇がありません。
「学校は楽しいよ」
 私はお父ちゃんの髭から逃げるように顔をそらしながら答えます。
 お父ちゃんはラーメン屋さんです。お父ちゃんの作るラーメンはおいしいと評判だし、お母ちゃんの手作り餃子も人気です。
 お父ちゃんとお母ちゃんが仲良く働いていて、赤いベルトの腕時計が私の左の手首にはまっていて、時を刻んでいるいることが私は幸せだなあと思います。
 まだ仕事をしているお父ちゃんが、
「もう八時になったから、一人で先に寝むりなさい。腕時計があるから大丈夫だね」
 と言いました。
「うん。おやすみなさい」
 私は大きな声でおやすみの挨拶をして、二階に上がりました。布団にもぐって小さな時計の音に耳をすませるとすぐに眠たくなりました。
 夜中に目を覚ますと、お父ちゃんとお母ちゃんがひそひそ何か話をしています。
「しばらく休むしかないな」
 お父ちゃんがそう言うと、
「大丈夫よね」
 お母ちゃんが泣いている様子です。
「ちいちゃんに何て説明しようかしら」
「俺が余命三ヶ月だって伝えるのはつらすぎるよな」
「そもそも余命が理解できないんじゃないかしら」
「腕時計喜んでくれて、よかったよ」
 私は胸がドキドキしてきました。時計の小さいコチコチの音が、ドキドキの音に消されてしまいます。怖くて怖くて泣き出しそうになりました。
 朝目が覚めると、お父ちゃんが難しい顔を見せないように、いつものように私を膝の上に抱きしめて言いました。
「お父ちゃん病気なんだよ」
 私はどうしていいのかわからなかったので、腕時計をじっと見つめていました。
お父ちゃんの髭がチクチク痛いのに、私はいつまでもじっと動かずに抱かれたままでいました。
「お父ちゃん、腕時計ありがとう。大切にするね」
 頭の上に乗せられたお父ちゃんの剃り残しのチクチクが濡れていました。
「ちいちゃんが小学校を卒業して、中学、高校、大学生になって、いつかお嫁さんにいくだろうな、みんなに平等に与えられているはずの時間だけど、みんな持ち時間は違うんだな」
 お父ちゃんはチクチクの髭を私の頬にこすりつけました。
 腕時計は小さくコチコチ時を刻んでいます。

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