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台風がやってくる(前編)

☀☀☀

 雲ひとつない青空に、ほんのり赤みがさしたなら、終わりのチャイムでさようなら。まっさらなグラウンドと、ぴかぴかの校門。通り抜けると、牛乳をふいたボロ雑巾みたいになった進が柱にくくりつけられていた。ランドセルはおしっこでずぶぬれ。臭い。臭い。最悪だ。

「おい筒井、無視するな」

 雑巾が喋った。また人を苗字で呼ぶ。そういうとこだ。子供は下の名前で呼び合うのが決まりなのに。

「おい! 助けるだろ、普通」

 普通、じゃない。進は〈いじめられっこ〉の係だ。お父さんがいなくなったからそう決まった。〈いじめっこ〉の係の猛はとても真面目だから、先生から借りた昔の日記を読んでいじめ方を勉強してる。ちなみに私は〈優等生〉の係。進なんかとは口もきかない。

「筒井~! 」

 無視、無視。帰ろ。シカトかぁ~と進がひょうきんに笑う。そういえばこいつ、〈いじめられっこ〉の前は〈元気いっぱい〉の係だったっけ……。

「台風が来るらしいから、気ぃつけて帰れよ!」

「えっ、何?」

 進はしてやったりと、びしゃびしゃの顔で笑った。慌てて口に手を当てたけど、もう遅くて、腰の防犯ブザーがビーとなった。減点! お父さんと先生はいつも私たちを見てる。

「たいふう?」

「空から水が落ちてきて、扇風機もないのに風が起きるんだ。お前の想像してるレベルじゃねえぞ。人間がぶっとんで町がぶっ壊れる。空が夜でもないのに真っ暗になる。マジだぞ」

「……水は蛇口からしか出ないわ」

「親父が電話で教えてくれたんだ!

 進の笑顔。首から下げていたケータイが震えた。お父さんだ。『電気マシンを進くんに使いなさい』 私はわっ!と驚いた。電気マシン、すごい! ずっと持たされてたけど、使うのは初めてだ。ランドセルにひっついているホルダーからマシンを抜き、押し当てる。習った通りひっかけを外してスイッチを押す。バチンと音がして、進は焦げた。明日の朝の会で〈いじめられっこ〉の係をまた決めないと。

 いや、係より先に電気マシンなんだって。私はマシンの口を、首にぎゅっと押し当てる。さっき撃ったばかりだから、あっつくて痛い。でも我慢。『たいふう』はきっと〈悪い言葉〉で、それを喋った進は〈悪い子〉になったんだ。それを聞いてしまった私も〈悪い子〉だから。

 正しいことをしなさい。

 先生も、お父さんも、いつもそう言ってる。

『恵! 待ちなさ』

 バチンと音がして、目の前がはじける。お父さんの声がして、しまった、と思った。大人の言うことを無視するのは、正しいことじゃない。防犯ブザーがビーと鳴る。ああ、でも〈悪い子〉は電気マシンなんだから、結局おんなじだ……。

☀☀☀

 1日減点3回で〈悪い子〉になる。〈悪いこと〉をしたり、〈悪い言葉〉を話したり聞いたりしたら一発で〈悪い子〉になる。〈悪い子〉は、おまわりさんに連れていかれて、一生牢屋に入る。それはちょっと怖かったけど、進とまた会えるかもしれないのは……うーん、ダメだけど、嬉しいな。でも、牢屋なのに床はやわらかいし、いい匂いがして、なんかおかしい。

「恵、起きたね。夕食を食べよう」

 お父さんの声だった。目を開くと、うちのソファ。いい匂いは、お父さんのシチュー。体を起こすと、頭が痛くて痛くて、ゲーが出そうになる。それでも我慢して、立ち上がって、ちょっとふらふらしちゃったけれど、食卓のテーブルについた。ご飯は座って食べるのが、正しいことだから。

 手を合わせる。お皿の中ですり潰された肉と豆がやわらかく溶けている。指先がぶるぶる震えてスプーンをうまく持てないけれど、私は〈優等生〉だから、シチューをこぼさない。お父さんもそれを見て、偉いねと笑いかけてくれた。

「偉くない。私、〈悪い子〉になっちゃったから……」

「違うよ、恵。進くんに電気マシンをしたのは、いなくなったお父さんがどこにいったのかを尋ねるためだ。それはとても大切なことだから、進くんが逃げちゃったらダメだから、電気マシンをしたんだ」

「でも、電気マシンをするのは〈悪い子〉だけだって!」

「もちろんだよ。でもそれは〈悪い言葉〉を話したからじゃない。そうだね、どう説明しようかな……。うん、実は進くんのお父さんは〈悪い大人〉なんだ。だからいなくなったんだ。その子供だから、進くんは〈悪い子〉なんだよね」

「〈悪い大人〉?」

 おかしい、と思った。お父さんが間違うわけがない。でも、大人が悪いなんて、そんなことはありえない。それに。

「それなら、どうして進は今まで連れていかれなかったの?」

「えっとね……」

 お父さんは、優しく笑ったままかたまった。ビーと防犯ブザーが鳴る。減点! でもそれは防犯ブザーじゃなくて、お父さんのケータイだった。お父さんは、食事の途中なのに席を立ち、部屋を出た。私は黙って、シチューを口に運んだ。しょっぱくて酸っぱいのがずっと続く、いつもの味だ。

「おまわりさんからの電話だったよ」

 お父さんは、戻ってくると、そう言った。びっしり汗をかいている。お父さんでも、おまわりさんと話すのは緊張するんだ。

「進くんのお父さんが見つかったって。恵のおかげだって、とても褒めていたよ。恵は正しいことをしたんだ。それは大人にも負けない、立派なことだよ」

「〈悪い大人〉も、やっぱり牢屋に入れられるの?」

「ごめん、恵。説明が難しかったね。〈悪い大人〉ってのは言葉の綾で……もちろん大人は悪くないよ。尊敬できる立派な人ばかりだ。えっとね、そう、進くんは防犯ブザーを持っていなかった。それは〈悪いこと〉だよね。彼が減点されるようなことを言っても何も鳴らなかっただろ?」

 じゃあ、『たいふう』は〈悪い言葉〉じゃなかったのか。

「それなら、たいふうってなんなの?」

「たいふう、台風ね。それはね……」

 お父さんは口を押さえ、何度もまばたきした。何かを喋ろうとして、また黙った。ビーとまた、防犯ブザーが鳴る。私のじゃなくて、お父さんのケータイ。あと1回で〈悪い子〉だ。でも、お父さんは大人だし、〈悪い大人〉なんていない……? 難しい~。 とにかく違う、とお父さんは言った。恵は〈悪い子〉じゃない。絶対に違う。何度も何度も言った。よくわからないけれど、こんなに難しいことを知っているお父さんがそう言うなら、そうなのかもしれないと私は思った。

☁☁☁

 ガタガタと机をゆするような音がして、夜中に目が覚めた。夜に電気を点けちゃいけない。だから、私は手探りで音の方向に歩いた。勉強机の横の窓が、その音を立てていた。窓の外から差し込む街灯の光で、窓にびっしりと水の粒がくっついているのがわかった。ガタガタ、ガタガタ、と外から何かに押されて窓が震える度に、水の粒はびりびり揺れた。

 空から水が落ちてきて、扇風機もないのに風が起きる。夕食の時のお父さんみたいだと私は思った。汗をかいて、震えている。

☁☁☁

「台風がやってきます」

 朝の会で、先生がそう言った。ちらちらと窓の外に目をやっていたクラスメートたちは、みんなびっくりして目をむいた。とんでもない朝だった。雲がいつもよりたくさん空にあって、それが白くなくて、灰色! 冷や冷やと顔に空気が当たって、見えないやわらかい手に押されているみたい。

 そして水! 進の言った通りだった。シャワーみたいな細い水が、何もないところからどんどん落ちてくる。集団登校でいっしょの薫は〈元気いっぱい〉の係だから、めちゃくちゃにはしゃいで、上を向いて顔をごしごし洗ったり、手を振り上げて何度もジャンプしたりしていた。やべ~。私は〈優等生〉の係だからそんなことはしなかったけど……。

「昨日の夜に、お父さん、お母さんから聞いた人もいるかもしれません。朝起きて、驚いたよね」

 先生は黒板に、空気、水、と字を書き、その横に大きな渦巻きを描いた。

「台風っていうのは空気と水でできた、動くおおきな渦巻きなのね。動いてるから、何もないのに風や雨が……ああ、雨っていうのは、空から降ってくる水のことね……風や雨が、こう、ガッと来る」

「先生!」

「はい、二宮猛くん」

「渦巻きなのに、風も水もまっすぐくるのはどうしてなんですか」

 いい質問、と先生は笑い、拍手した。皆も遅れないよう、手を叩く。

「想像してね。とってもとっても大きい渦巻きなんだ。地球も丸いけれど、地面はまっすぐだよね。大きいから、まっすぐなんだ」

「先生!」

「はい、久本杏さん」

「進から聞いたんですけれど、家が壊れるくらい強い風が吹くって……」

 ビーと防犯ブザーが鳴った。減点!〈物静か〉の係の杏は、真っ青になってうつむいた。座りなさい、と先生は少し眉をしかめて言った後、再びにっこりと笑った。

「もちろん、そんなことはありません。雨も風も、大人が協力してなくしていたんです。濡れたら、今朝みたいに替えの服を用意しないといけない。風であぶないものが飛んできて、怪我をするかもしれない。今回の台風は、そうですね……」

 先生は少し沈黙し、天井に目をやった後、言った。

「勉強のために、私たちが相談して準備したものです。昔のことを勉強して、正しいこと、間違っていたことを知るのはとても大切なことだってわかりますよね。ちょっとあぶないけれど大丈夫。先生も、お父さん、お母さんもしっかり見張ってますから」

 それじゃあ1時間目の授業を始めましょうか、と言って、先生は私を見た。私は〈優等生〉の係で、学級委員長だから、授業のはじめをの号令をかけなければいけない。えーっと……もしかして先生は忘れちゃったんだろうか? 私は手を上げて、言った。

「先生! 進がいなくなったんだから、〈いじめられっこ〉の係を決めないといけないと思います!」

 先生は、一瞬、ものすごい目になった。とても怖いものを見てしまったような目だった。もしかして〈悪い言葉〉だったのかと思ったけれど、防犯ブザーは鳴らない。

「そうね。忘れていたわ……。でも、すぐに決めなくてもいいと校長先生から言われているの。皆もね、そんな、無理にね……」

「私がやります!」

 先生がかたまった。防犯ブザーは鳴らない。正しいことなんだ、と私は胸が暖かくなった。クラスメートの皆も、偉い人を見る目で私を見ている。〈いじめられっこ〉の係は大切だけれど、それでもやっぱり大変だから、自分から立候補できる子は少ない。でも、正しいことだ。正しいことは、しなくちゃいけない。

「筒井、恵さん……そんな……」

 先生は、胸ポケットのケータイに手をやり、ぎゅっとかたく握りしめた後、目をつむり、いつもの優しい笑顔になった。「すばらしいわ。筒井恵さん」 褒められた! 「みんな、拍手」先生は手を叩いた。皆も遅れないように手を叩いた。窓にぶつかる風と水の音が、その瞬間だけ聞こえなくなったような気がした。


【後編に続く】