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台風がやってくる(後編)

前編より


☁☁☁

 午後の授業には参加できなかった。昼休みに〈いじめっこ〉の係の猛につかまって体育倉庫に閉じ込められたからだ。私はガムテープぐるぐるまきのミイラ。授業をさぼるのはいけないことだ。でも防犯ブザーは鳴らない。これは〈いじめられっこ〉の係の仕事で、間違ったことじゃない。

 口にも貼られて、うまく息ができない。ザリガニ池の藻を無理矢理食べさせられたのもひどくて、真夏のゴミ捨て場みたいな匂いで頭の中が全部いっぱいになっている。もうダメだ~気絶する~。そしたら突然、お腹に衝撃が走った。蹴られたのだ。目の前が真っ暗になるような感覚があって、朝ごはんと池の藻がせりあがって、鼻からぶじゅぶじゅ飛び出た。

 引きずり起こされ、口のテープをはがされた。皮膚もちょっとはがれて、痛くてすーすーする。私がたまらず倉庫の床にゲーを吐くと、頭を踏みつけられて、顔をそのままゲーに押しつけられた。うおー最悪だ。私は猛の真面目な〈いじめっこ〉ぶりに、ちょっと感動してしまった。

「先生が、連れ戻してこいって。恵、大丈夫? 立てる?」

 猛が心配そうに、ゲーを舐めてる私の顔をのぞきこみ、鼻の穴に鉛筆の後ろをつっこんだ。そのまま持ち上げられ、痛みで無理やり立たされる。

「ふぁいじょうぶだけど、ふぁんで?」

「台風が強くなってきたから、みんな教室にいましょう、だって」

 よろよろと、倉庫から出る。股間を後ろから蹴り上げられたり、髪をひっぱられたりしながら、猛と表廊下を歩いた。空から降る水の量は少なくなっていたけれど、風がすごい。ものすごい。校庭のメタセコイアが髪をふりまわす女の人みたいに、ばっさばっさがっくがっくん頭をゆらしてる。

「恵さ、台風のこと、お父さんから聞いた?」

「どうして?」

 猛は黙って、不安そうにこちらを見た。人間がぶっとんで町がぶっ壊れる。空が夜でもないのに真っ暗になる。だとしたら確かに大変だ。猛は進をいじめていたから、進から直接おしえてもらったのかもしれない。でもそれを口には出せない。杏みたいに、ビーだ。減点!だ。

「正しいことをしなさいって、先生、いっつも言ってたよね」

「そうね」

「昨日の夜に、お母さんに尋いたんだ。進に聞いたこと。そしたら、お母さん、すごく困って、ケータイが防犯ブザーと同じ音で鳴ったんだ」

 おお……。うちのお父さんと同じだ。私はなんだか感心した。

「大人も減点されるんだ。〈悪い子〉が電気マシンなら、3回減点されたらお母さんにだって同じことをしなきゃいけないんだ。大人はみんな正しくて、立派だけど、もしそうなったなら、それが正しいことなんだ」

 猛はそう言って、ホルダーを握った。これは減点されるぞ、と私は思わず身をすくめた。でも、猛の防犯ブザーは鳴らなかった。ごうごうごうごう、と風が吹くごっつい音だけで、どれだけ待っても鳴らなかった。

☂☂☂

 6時間目の授業が済んだから、終わりのチャイムでさようなら。でも、青空は全然見えなくて、赤みがさしてるんだかどうなんだか、わからないくらい薄暗い。夜でもないのに真っ暗になるという進の言葉は大嘘で、ちょっと日が落ちてきたくらいでしかなかったけれど、その代わり、パッ、パッと空が光る度に、教室の中の机を全部蹴り飛ばしたみたいなとんでもない音がする。

 一度は少なくなっていた落ちてくる水の量も、あっという間に元に戻って、それどころかバケツをぶちまけたみたいなすんごい量で、どんどん強くなる風といっしょに、もう窓ガラスが割れちゃうんじゃないかってくらい、ガンガンガン!ガンガンガン!と校舎の壁を叩いてる。それでも、先生が言う通り、町が壊れるなんてことはない。大人たちが作った建物が、壊れるなんてありえなかった。

 でも、人間はぶっ飛ばされるかもしれない。

 下駄箱で靴を履き、集団下校の猛と薫と一緒にグラウンドに出た時、私はそう思った。校舎の中はまだ静かだったのだ。みしみしばきばきと何かが折れる音や倒れる音がするんだけれども、風と水が暴れまくる音の方がずっと大きくて半分しか聞こえない。むちゃくちゃ大きな赤ん坊に、体の上から下までを押しまくられてるみたいで、立って歩くのも難しい。運動音痴の薫は校門に辿り着くまでに2度も転んで、〈元気いっぱい〉にはしゃいでる。

「待って!待ちなさい!」

 ずぶぬれの女の人が、叫びながら走ってきた。おばけみたいな髪型でわからなかったけれど、先生だった。

「君たち!校舎の中に戻って!今日は学校に泊まるの!」

 先生は様子が変だった。いつもの優しい笑顔も貼りついたように不自然で、ぐっちゃぐちゃに濡れた顔で、とんでもないことを言いだした。

「でも、6時までに家に帰らないと……」

「そうね!筒井恵さんは、偉い。立派よ!でも今日はいいの!皆さんのお父さんお母さんにも連絡はしてるし、校長先生にも……」

 先生は早口をやめてかたまった。町内放送のチャイムが鳴って、蛍の光を歌い出した。たいふうの中でもそれはしっかり聞こえた。先生はものすごい目をして山の上の放送局をにらみ、私の手を乱暴につかんだ。

「ほら、早く!危ないわ!」

「危なくないです。先生とお父さんが見てくれているから」

「いいのよ!もういいの!監心連塔も機能不全に陥ってるから、今日だけはバレない……」

 正しいことをしないといけない。いつだって。どんなときだって。先生とお父さんはいつも見ているけれど、たとえ見ていなかったとしても、正しいことをしないといけない。先生もそう教えてくれた。こんなぐちゃぐちゃの半泣きの顔じゃなくて、いつもの優しい笑顔で、黒板にそう書いていた。

「先生は〈悪い大人〉なんですか」

 猛が言って、じっと先生の顔を見た。私も先生の手をふりはらって、じっと見た。先生は、口をぱくぱくさせて、何かを答えようとしていた。でもそれより前に、防犯ブザーが鳴った。

 ピュイピュイピュイピュイピュイピュイ!

 私のでも薫のでも猛のでもなく、先生の胸ポケットのケータイが鳴った。3回目の減点の音はビーじゃない。〈悪いこと〉をした時と同じ、笛の音。ランドセルにひっついているホルダーからマシンを抜き、押し当てる。習った通りひっかけを外してスイッチを押す。バチンと音がして、先生は焦げた。焦げたけれどまだ動いてる。体が大きいから、1回じゃ効かないんだと猛が言った。賢い! 猛はやっぱり真面目で、よく勉強をしている。

☂☂☂

 校門を抜けて、通学路を私たちは歩いた。びったびたの服が枝やごみといっしょに体に貼りついていて、なんかもうやばすぎる。昔の言葉で「ぬれねずみ」って言うんだ、と猛が教えてくれた。2丁目通りに出る頃には、薫がいなくなっていた。吹き飛ばされたんだ! 防犯ブザーは鳴ったのかな……。

 大人たちの車は1台も通っていなかったけれど、私と猛は信号をちゃんと守った。2つ目の交差点のすぐそばに猛の家はあるから、ここでバイバイだ。猛は葉っぱまみれの手を上げて、横断歩道を渡った。私の家の方からものすごい勢いで車が走ってきて、猛をはねとばし、急カーブを描いて街路樹に突っ込んだ。空が光って、机が転がった。

「ええ……。猛、大丈夫?」

 慌ててかけよったけれど、どうやら大丈夫じゃなさそうだ。吹っ飛んで、歩道まで戻された猛は体がおかしな方向に曲がっていて、頭の上から中身がこぼれてる。ぐろい。キショいけど、助けなきゃ。こぼれた脳みそをすくって、中に戻した。猛は目をぱちぱちさせている。煙を吹いた車から、大人が2人出てきて、大声で何かを話しだした。

「第6塔のトップともあろうものが事態を投げ出してこの有様ですよ!」「うるさい!娘が学校にいるんだ!」「消耗品としてデザインしたのはあなたでしょうが!システム管理側が一線を引けなくてどうするんです!」「気象操作のエラーは俺の部署の責任じゃない!」「それでもこの選心特区を一から構築したのはあなたたち三期生だ!」「いいから車に戻れ!」「戻りません!すぐに連塔に戻るんです!事態を治めないと!」……

 難しい話でよくわからない。それよりも、猛が何かを喋ろうとしていたので、耳をすませた。〈いじめっこ〉の係、俺がんばったのに、と言っていた。あとちょっとで家だったのに。6時までに帰れない。正しいことをできなかった。俺は〈悪い子〉になっちゃうんだ、とすすり泣いていた。指がくいくい宙をひっかいている。電気マシンを取り出そうとしているんだと思った。

 私が代わりに、と思ったけれど、防犯ブザーはまだ鳴っていないことに、ギリギリで気がついた。当たり前で、まだ6時じゃない。危ね~。電子マシンを間違って使うことは〈悪いこと〉だ。6時まで待つ……? ダメじゃん。それだと私が帰れない。ここでは、猛を置いてゆくのが正しいことだ。私は自分のちからで考えて、導きだせたことに、胸を暖かくする。

「恵!」

 お父さんの声が聞こえてびっくりした。さっき、猛をはねて言い争っていた大人の片方が、お父さんだった。お父さんは私を叱る時もいつも優しくて、そんな大声聞いたことがなかったからわからなかった。片手に握っている筒っぽい機械?を投げ捨てて、お父さんは私に飛びつき、街路樹にぶつかった車の中に押し込んだ。

 助手席だ。シートベルトをする。偉い。お父さんは少し迷った後、運転手席に乗り込んで扉を閉めた。たいふうの音は、それで全くしなくなった。「お父さん、ベルト」と私が言うと、お父さんはちょっとだけポケッとして、笑顔でうなずき、ベルトをしめた。エンジンがかかる音。

「もう1人の、お友達、追いてっちゃうの?」

「ええ……? ああ、あいつはいいんだ。俺の、私の、部下で、先に帰ったんだよ」

「お仕事の最中だったの?」

「違うよ。恵を迎えにきたんだ。危ないからね。学校にいるって聞いてたのに。くそっ……あの教師、ろくな管理能力もない……減級だろう……」

 ドン!と何かを轢いた衝撃があった。風も水も、車を叩いていたけれど、音は聞こえないから、それはよくわかった。

「また子供か……視界が悪すぎる。ウインカーをなんでなくしたんだ……第2塔の連中のミスだよこんなの……人間なんだから、ミスを前提に組んで当然だろ……」

 先生と同じで、お父さんの調子はおかしかった。首元は濡れてどろどろで枝がくっついてたし、目はなんだかふわふわしてた。いつもみたいな優しい口調じゃなくて、なんだかすごくイライラしてて乱暴だった。

「お父さん、家に帰るの」

「いや、町を出る。耐震・耐候性能をこの地区の家屋にはもたしていない。倒壊して、危険だ」

「でも、6時までに帰らないと」

「あ? もう、いいんだよ、そんなの……」

 いいわけがない。お父さんは間違っている。大人は立派で、正しくて、間違わない。でも、お父さんは間違っている。車の中に入ってからたいふうの音は聞こえなくなった。それは、もっと大きな音が、ずっと鳴っていたからだ。防犯ブザーの音。ビーじゃない方。お父さんの携帯。

 ピュイピュイピュイピュイピュイピュイピュイ!

 車の窓を、風と水が叩いてる。お父さんと私を追いかけて、たくさんの人が見えない手で叩いている。どうしてだろう、と私は考えたけれど。わからない。私は子供だから、難しいことはまだわからない。それでも、正しいことをしなくちゃいけないんだと思った。お父さんが〈悪いこと〉をしたなら、お父さんの子供が、もっともっと正しいことを。

 首にかけている、ケータイが震えた。

『電気マシンを使いなさい』

 お父さんの、いつもの優しい声がした。

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 雲ひとつない青空に、ほんのり赤みがさしたなら、終わりのチャイムでさようなら。夕食の準備を整えながら、今頃、グラウンドに駆けだしたであろう華のことを思い浮かべる。1人目の築、2人目の正と違って、あの娘はとても真面目な正しい子供で、防犯ブザーが鳴ることもなく、評価も高い。

 子供だけでなく、大人も正しくなければならない。〈悪い大人〉がいることを認め、子供にも隠しごとをせず、まっすぐに正しいことと、間違ったことを教える必要がある。父を継いで塔に入った私がたてつけた方針は、この町をよりよい方向に改めた。父の過ちを正したのだ。

 私は正しいことをしている。

 あれから、防犯ブザーは1度も鳴っていない。

 ガタガタ、と窓が鳴る音がして、私は顔を上げた。

 窓にびっしりと、水滴がついていた。

「どうして」

 包丁を落としそうになり、こらえる。ミスはない。正しいことをしていたはずなのに。窓は汗をかき震えている。気が狂ったように、ゆすっている。それを見て、私は気がついた。あの日、車の中でわからなかったことが、ようやくわかった。進でも猛でも杏でも薫でも、お父さんでも先生でもない。悪かったわけでも、間違っていたわけでもない。どこの誰でもない、大きな大きな何かが、理由もなく、ただ、むちゃくちゃに怒っているのだ。ただただ大きな怒りの塊を、それだけを、叫んでいるのだ。

 窓をゆすって、窓をゆすって、窓をゆすって、人を吹き飛ばして町を壊して空を夜にして、それはもう最初から、そうして、ずっとずっと怒っている。台風が、やってくる。


【終わり】