書架調合(前編)
1
客は必ず午後10時にやって来る。薄く開かれた扉から差し込む灯光は、2号書架の中央に線を引く。私はその時間、決まってこの書庫におり、それを見逃すことはない。呼び鈴を取り外したのはどのくらい前だったか。壁を埋める本の山から目を離し、客の顔を確認することすら最近はしなくなった。
「母親は喜んでいたか」
「……はい。話を聞いただけで好みの本がわかるんですね」
「当然だ」
前回の貸出は3日前。想定より早く読み終えている。これならばあと1冊で済むだろう。私は、延々と続く背表紙の列を目で追った。
「ただ、まだ何も。母は体調も変わらずで」
「鰻だけを食べて体を壊す奴はいない。効果が出るのは食い合わせた後だ」
「本を読んだだけで、本当にそんな」
「本当に、死ぬ。お前の母親は死ぬ。読むという行為は人を毒する。3冊あれば生き死に程度は簡単に操れる。私は殺すことしかできないが」
「……苦しみますか」
「お前の依頼通り、そうなるように渡す本を選んでいる」
上の空で応答を続けながら、天の焼けた上製本を手に取った。書架から本を引き抜くのは手榴弾のピンを抜くのに似ている。振り向くと、客は慌てて私から目を逸らした。泳いだ視線は、私が貸出台に置いたその小説に吸い寄せられた。
「これが最後の1冊だ。短編集になっている。3本目をまず読ませ、あとは母親の自由でいい。アルコールを好んだ作家で先は長くないと言われていたが、それより早く腕にガタが来た。全く売れず、市場にはない。稀覯本だ。必ず返せ」
「……いえ。大丈夫です。お借りしなくても」
「何?」
「持ってます、あたし、この本」
客は震える手で本を取り上げた。表紙を見つめ、ささくれた唇がうっすら歪んだ。地層のように重く乾いた書庫の空気が湿り、濁った。客は笑っていた。そうね、父さん、そうだよね。あんな女、許せないよね。とり憑かれたように呟き、初めて私の目を見て言った。
「これは、父の書いた本です」
「……なら、選び直しだ」
私は舌打ちをし、客から本を取り上げた。貸出台に一度置いた本を読ませないまま書架に戻すのは恥だ。この稼業も始めて随分長い。こういう偶然もあるのかと、絶望的な気分になる。
「待ってください。その本、どうして」
「『自分の夫の書いた本』という情報は、それだけで読み手に大きな影響を与えうる。それを加味した選定を私はしていない」
「待って!」
左手首を掴まれる。肌の触れ合う感触に、蟻が皮膚の中を這いずるような嫌悪を覚え、私は慌てて振り払った。爪が客の顎をかする。微かに切れた肌の上に血の粒がプツプツと浮かぶ。
「その本、どうしても使えませんか。あたしが薦めたなら、母は絶対にその本を読みます。読まないはずがないんです。それを読んで、あいつが死ぬなら、あたしは」
「顎の血を拭け」
自分の声は、かすれていた。
「料金でしたら、幾らでも払います。できませんか。最後に読ませる本を決めて、そこから読み合わせに必要な本を逆算する、みたいな……」
「血を拭け!」
夢中になって喋っていた客は、私の狼狽に気がつき、我に返ったようだった。ポケットティッシュを取り出し、顎をぬぐう。紙の上に汚らしく付着した血液のことを想像するだけで、内臓を素手で握りつぶされたような気分になる。
「……理屈の上では、可能だ」
吐き気をこらえながら、私は言った。
「だったら」
「理屈の上だけだ。読み合わせをどう組み立てても、パーツが足りない。都合よく合致する本が、この書庫にはない」
明らかに落胆した表情を客は浮かべた。私は、客の父が書いたという手元の本に視線を落とした。この厚み分だけ空いた隙間に、この本を差し直す。何の影響ももたらさぬまま、偶然だから仕方がないと馬鹿みたいに呆けた顔で、この私が、差し直すのだ。
吐き気は、人肌に触れたことと、血を見たことだけが理由ではなかった。許されない恥だ。読み手の人となりの理解だけで満足し、具体的な情報を収集しなかったのは、私の怠慢だ。偶然は言い訳にならない。
「……1つ、方法がある。面倒で時間がかかるが、仕方がない。料金の追加は不要だ。ただし、幾らかの負担をお前に強いる。それは我慢しろ」
客が再び顔を上げた。実現させる算段を組み立てながら、私は言った。
「お前が、本を書け」
2
私の書庫がある棟を、5階まで階段で上る。子供が模造紙に書きなぐったような無秩序に折れ曲がる廊下を奥へと進む。進むほどに窓の数は少なくなり、やがて、一切の採光のない蛍光灯だけに照らされた通路に出る。その最奥から3番目、右手の部屋に〈小説家〉の仕事場はある。
客を扉の前に立たせ、私は後ろに下がった。この部屋にも呼び鈴はない。10秒程黙って待つと、鍵の外れた音がした。突然、扉からぬっと突き出た肉塊に顔を掴まれ、客が悲鳴を上げた。〈小説家〉は客の頬をむにむにと揉んだ後、毛が1本もない大きな顔をつるりと撫でた。後ろにいる私に気がついて、ゆっくりと1つ瞬きをする。
「なんだ君か」
手招きされて、仕事場に入る。のしのしと廊下を歩くその背中は、歩けることが不思議なほどに丸く肥え太っているが、肌は輝くほどに美しく、不潔感はない。
「座って」
応接室に案内される。床を指さされ、怯えた様子の客は辺りを見回した後、諦めたようにぺたりと座った。椅子がない。家具がない。奴の肉体と同じく、6面全てゆで卵のようにつるりと剥けている。部屋の主も、肉にさざなみを立てながら腰を下ろした。
「で、何の用なの。その娘を売るなら、僕のところよりも〈製本屋〉の方がいいと思うけど」
私は立ったまま事情を説明した。まつげのない滑らかな目蓋が、眼球の上でひだになって積み重なる。「目を細め、喜ぶ」という表現を〈小説家〉が行うとこうなる。
「おもしろいね」
ふ、ふ、ふ、と〈小説家〉は笑った。
「僕に頼めばいいのに、わざわざこの娘に書かせるんだ」
「強引な読み合わせだ。『娘が書いた』という強烈な付加価値が欲しい」
「書いたことにしちゃえば?」
私は応じなかった。〈小説家〉は顔の肉を丸めてにやにやしている。私がそういう誤魔化しを好まないことを、知った上で言っているのだ。優秀な能力を持つ人間が、性格も優れているとは限らない。〈小説家〉はひとしきり笑うと、客の方にその巨体を傾けた。
「ねえ、君、まとまった文章を書いたことはある? 国語は得意だった?」
「えっと、学校で、多少は」
「学校? 学生さんなの?」
「いえ、物理の、教師で……」
「先生なんだ。じゃあ、デスクワークは多いか」
〈小説家〉はそう呟くと、客の腕をつかみ、ぐいと引き寄せた。甲高い悲鳴が上がる。床に押さえつけ、組み伏せて、指、掌、腕、肩、首、背中と、上半身の肉を順に握ってゆく。道具の点検をする手つきだった。客は助けを求めるように私を見たが、無視する。
「どうだ?」
「悪くないね。座って作業をするのに慣れているみたいだし、筋肉も最低限はついている。 5000文字程度の短編だったら、君との調整も含めて1週間もあれば書けるんじゃない? 」
「2本は欲しい。2週間だな」
「完成品はデータで?」
「いや、母親は電子書籍に慣れていない。十分な効果をあげるには、めくりや重み、手触りでも調整をかける必要もある。〈製本屋〉に依頼する」
「時代遅れだね。電子の方が装丁で与えられる影響は大きいよ」
「専門外だ」
〈小説家〉は再び笑い、下敷きにしていた客に気づき、開放した。押し縮めたバネのように客は床を転げ、壁際まで逃げた。何かしらをヒステリックに叫んでいるが、聞き取れない。
「他に必要なものは」
「椅子と爪切りとキーボード。その娘に選ばせて。PCとデスクは余りがある。ああ、あと着替えと、宿泊用品かな。当たり前だけど」
それを聞いて客が声を荒げた。自分をどうするつもりか、と尋ねているようだった。〈小説家〉に応じる気配がなかったため、私が答えた。
「お前にはここに泊まり込みで、小説を書いてもらう。期間は、そうだな、来週頭から2週間程度だ。休みをとれ。難しければ言え。こちらで根回しをする」
「泊まり込みって……」
客は絶句し、〈小説家〉を見て、身震いした。
「安心しろ、そいつは女性だ」
白く磨き抜かれた肉の塊が、その頭部を半分ひしゃげさせた。長いつきあいの私でもしばらくわからなかったが、「ウインク」という表現を〈小説家〉が行うとこうなるのか、と遅れて理解した。
【後編に続く】