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海と脂

 白み始めた水平線に追われるように、海面からかんじきを引きはがす。目指す船灯は遠く、小さく、頼りない。夜の海では熟練の漁師すら距離感が狂う。自分の位置を推し測る物差しは、融け始めた脂が放つ饐えた臭いと、足裏の柔な感触しかない。

 陸を離れ、もう長い。海を固める脂の大地は想像以上に緩く、欲をかいたキャラバンが沈む姿を何度も見た。”魚籠は軽く、引き上げは早く”……海上を歩く、渡りの鉄則は破っていない。今夜の失敗は拾い物をしたことだ。背負った分、重さが増え歩速が落ちた。

 夜は徐々にまずめに移り、薄闇に船の輪郭が浮かぶ。近い。これなら泳げる、と安堵はしない。脂に浸った海水は気道を容易に塞ぐ。その脂がこびりつき、足が1歩毎に重くなる。海が裾を引くようだ。焦りで汗が噴き出し、背負った拾い物の体温でぬるむ。小さな呼気が、荒くうなじを撫でた。

 ──捨てるか。

 妥当な選択肢を、陸に残した息子の記憶が打ち消した。もう長い。成人したはずだ。ふくふくと丸い赤ん坊の顔しか知らない。

「くそっ……」

 海面を踏み抜き膝まで沈む。同時に左手がタラップを掴んだ。把持したまま息を整え、体を甲板に引き上げる。裂いた布で包んだ拾い物を、そっと降ろす。薄闇の中でそれは人間の子供に見える。その頬に手をやろうとした時、東から日が差し、船が傾いた。

 海面をびっしりと覆う乳白色の網目が、曙光に撫でられて柔く緩み、海が海に戻ってゆく。立ち上る脂の甘い臭気に潮臭さが混じる。朝日が船に波の揺れを返し、拾い物の姿を照らした。頭部が不自然に大きく肩がない。円錐に窄まる腰から脚ではなく鰭が生えている。腕だけが人に似てなめらかで、五指もある。

 ──子供がいたのか。

 あの海獣を銛で突いた感触を忘れたことは1度もない。風船を潰すような断末魔。白く噴き上がった脂の潮。脂は今もその傷口から滾々と湧き、海を浸し続けている。自分が殺してしまった、この仔の母親の死骸から。


【続く】