薄火点(完全版)
ゴン、ゴン、と遮温服を叩く音がする。
白い雪を見たことがない。どこまでも広がる雪原も、降りやむことのない雪も、全ては煤と油の混じった薄灰色をしている。それでもリィが遮温服を脱いだ時、濡れた黒髪にはらわれた雪はとても綺麗だった。リィは優秀な隊員だった。雪に含まれる廃油が人肌程度の温度で発火することも、雪原で肌をさらせば何が起こるかも、隊の5人の中で一番よく知っていた。
遮温服は施錠されており、自由に脱ぎ着はできない。彼女はたぶん、ナイフで肉ごと裂いて脱いだのだ。僕は最後尾にいたから全てが見えた。フラッシュを焚いたような光と共にリィの全身が燃え上がり、その熱を服が感知して消火薬を爆散させた。彼女の体は粉になった。火は延焼し、延焼は火雪崩になる。この雪原で消火は全てに優先される。任務の成功よりも、僕たちの命よりも……。
ゴン、ゴン、と遮温服を叩く音がした。
目を開く。着ぶくれした宇宙人が拳で僕のメットを打っている。隊の仲間だ。爆発に巻き込まれ、僕は失神していたようだった。溶けて粘性になった雪をぬぐい落し、身を起こす。3人が僕を取り囲んでいた。サクとバンとビス。顔部分には失明防止用の減光膜が塗られており、誰が誰かはわからない。
『大丈夫、無事だよ』
音声が通じた様子はなかった。通信機が壊れたらしい。僕の様子を見て、3人もそれを理解したようだ。引き起こされ、歩くよう促される。僕が立ちすくんでいると、後ろから背中を叩かれた。4人目。顔は見えないが、その陽気な素振りですぐわかる。バンだ。わかったよ、と僕は笑い、歩き出す。
そして、また立ち止まった。
4人が不思議そうに僕を見た。サク、バン、ビス、そしてあと1人。全員の顔は遮温服で隠れ、誰が誰かわからない。通信で確認することもできない。僕たちの隊は5人いて、1人が欠けた。僕の目の前で、火になった。それなのに、僕たちの隊は、まだ5人いた。
【薄火点】
この雪原では、大人が子供を、ドームが大人を、ケーブルがドームを守っている。つまり、誰かがケーブルを守る必要があり、守られているだけの子供はちょうど手が空いていた。もちろん、大人はその理屈を認めなかった。『大人は子供を守る』。だから、守らなくてもよい子供が作られた。それが僕たちだった。僕たちがケーブルを守る。
保全業務を行う上で君たちは優先順位を知る必要があると、その日、教官は言った。何度も繰り返した授業だけど、いつも通り真剣だった。隊の5人でそれに答えられない者はいなかったし、リィに至っては授業をまるまる暗唱することさえできたのに。
一番は、火雪崩を起こさないこと。
次に、ケーブルを守ること。
その次に、敵に捕まらないこと。
そして最後に、死なないこと。
僕たちの復唱を受けて、教官は悲し気に微笑んだ。君たちが死ぬと新しい体の培養にコストがかかるが、奪われる方がよほど大きな問題だ、と噛んで含めるように言った。続く台詞も僕は知っていた。「近頃は海岸の連中も技術力をつけている。君たちには到底及ばないが、試作品は既に完成させているという報告もある」、こうだ。
教官の微かにうるんだ視線は、椅子に座らされた僕とバンに向けられていた。椅子の側面からは管が2本伸びており、片方は途中で二股に分かれて僕の鼻に、さらにもう片方はリィが手にする機械に繋がっていた。バンの分の機械を持つのは、当然ビスだ。こういう時、相方のいないサクはいつも仲間はずれになった。
リィとビスがスイッチを入れた。生ぬるい薬液が鼻の奥でどろりと垂れ、直後に液状の針を流し込んだような激痛が走った。保全業務中に敵に襲われ、サクは殺された。一方、僕とバンは捕まったらしかった。ドームにはリィとビスが帰投し、3日後、新しい体に入力され終わった人格の内、「優先順位」を守れなかった僕とバンが椅子に座らされた。
失敗したのは前の僕だけど、調整を受けることへの不満はなかった。当然だ。敵の鋼網弾に絡め取られた時、前の僕はどうして消火薬のスイッチを押し、死ぬことができなかったのか。体の芯から沸き起こった痺れのような感覚。その症状は体を変えても消えていなかった。原因は人格にある。フィードバックが、おぼろげな記憶と共に問題も引き継いでいた。
苦痛にうめく僕たちから目を逸らしながら、感情を抑えた声で教官が話した。君たちが真に優れているのは人格だと。動揺せず、思考を続け、判断を下し、行動し、死んでもある程度の経験を引き付いで改善できる点にあると。正常に動作する限りミスは起こらない。そうなるよう作られている。しかし、何年も使い続けているとどうしてもブレは生じる。
リィがこれまでの調整回数を問われ、4回です、と答えた。その通りだ、と教官は頷いた。最も優秀なリィですらも、4回の調整が必要があった。奪われたのは大問題だが、君たちに責任はない……教官の声が熱を帯びていた。ブレの発生を予測し、被害が発生する前に調整をかけなかった我々が悪い。そう言った。
そんな、と僕が教官の言葉を否定しようとした時、薬液が気管と食道を通って肺と胃に流れ込んだ。体の内側に焼きごてを押し当てているようだった。視界の端にバンが映った。涎と涙を流しながら、えひ、えひとふいごのように呼吸している。見られていることに気がついたのか、震える眼球がこちらを向いた。
バンの表情に、笑みが浮かんだ。2人そろって、ひどい有様だな。そう言ってるのだと思った。確かに教官の言うとおり、僕たちの人格は優れていると、その時の僕は思った。バンはひょうきんなムードメーカーとして作られていて、耐えがたい苦痛の中でも問題なくその通り動作していた。
ーーー
雪原に足を下ろすたび、わずかに溶けた煤と油が遮温服の隙間に詰まり、足を少し重くする。薄灰色の吹雪も勢いを緩める気配はなく、真正面から僕たちを押して歩行の邪魔をする。
メットにへばりついた雪をそっと手袋で拭うと、薄く、汚らしく延びて視界を汚した。前をゆくバンの背中だけがおぼろに見える。その肩の高さと、足裏に伝わる感触から、自分が今、坂を上っていることがかろうじてわかる。
目的のケーブルまで、あのどのくらいだろう。先導役のサクは把握しているはずだが、その姿も吹雪で見えない。見えたところで、通信機の壊れた僕に尋ねる方法はない。それどころか、先頭をゆくその隊員が本当にサクなのかすら今の僕にはわからない。
紛れ込んだ5人目。明らかな異常事態にも関わらず、僕以外の隊員はそれを問題にしていないようだった。現時点で考えられる可能性は2つあった。1つは、リィの自殺を目撃したのが僕だけだった可能性。消火薬の爆散に紛れ、誰かがリィのふりをして入り込んだ。誰が? 教官がよく言う「海岸の連中の試作品」だろうか。あの時、捕まった僕をモデルにして作られた、僕の兄弟がこの中に紛れ込んでいる……。
いや、不自然だ。遮温服から消火薬を取り外すことはできない。爆散している以上、誰かが絶対に死んでいる。リィの自殺を目撃しなかったとしても、1人減ったことは明確だ。通信もごまかせない。今の僕のように、壊れたと言い張るのか? 他の3人が怪しまないわけがないし、紛れ込む方もそんな計画を立てるわけがない。
だとしたら、ありうるのは2つ目。リィは自殺なんてしていない。つまり、僕の記憶に異常があったという可能性だ。前回の調整はバンと一緒に受けた2年前だから、人格にブレが生じるにはまだ早い。だけど、それも消火薬の爆散に巻き込まれたショックが原因だとすれば説明はつく。何より、リィが遮温服を脱ぐなんて、到底現実とは思えない。
もちろん、リィも失敗はする。調整を4回受けたという実績が彼女ですらも完璧でないことを証明している。だとしても、ありえない。遮温服を脱ぐという行為は、最も優先順位の高い「火雪崩を起こさない」という決まりに反している。消火薬がある以上、火雪崩にならないとわかっていたとしても、そのリスクを高めるような手段を彼女が選ぶわけがない。
……いや、待て。
僕の記憶が間違っていたのなら、消火薬は爆散していないことになる。それなら、どうして僕は意識を失っていたんだ?
思い出そうとして、僕は愕然とした。動揺が呼気を荒くし、歩幅を乱した。それが原因となって、強く打った脇腹が痛んだ。瞼をかたく閉じ、開く。少なくとも間違いのない事実が1つある。今の僕は人格に問題が生じている。この程度の思考を間違い、動揺することは本来ならありえない。そして、記憶にも異常がある。
リィの自殺が事実にせよ、虚構にせよ、その前後の経緯がまるで思い出せなかった。記憶の中で、あの光景だけが、濡れた黒髪が雪をはらったあの瞬間だけが、ぼんやりと光を放ち、焼きついていた。
『くそっ!』
壊れた通信機に向かって、僕は怒鳴っていた。異常、異常、異常ばかりだ。通信機が繋がらないことも本来ならありえなかった。通信機程度ならば修理をする技術は身に着けている。だけど、壊れていないものは直しようがない。何度モニターを表示し、確認しても同じだった。通信機は問題なく作動してる。それなのに、繋がらなかった。圏内の通信を拾わない。何度モニターを表示しても……。
『……嘘だろ』
モニターを表示し、僕は気がついた。異常はもう1つ起きていた。装備の破損を示すアラートが別の部分に灯っていたのだ。消火薬を爆散させる機構だった。今壊れたのか。違う。意識を取り戻した時から、アラートは灯っていた。気がついていたのに、見逃していた。一番重要なアラートを。火雪崩のリスクを。呆けて。動揺して。壊れている。どうしようもなく。遮温服でも通信機でもない。今、一番壊れているのは、この僕だ。
ーーー
その日、僕はサクとビスと一緒に洗浄室で遮温服にブラシをかけていた。業務から帰投する際、燃焼による事故を防ぐために遮温服は徹底的に洗浄される。だけど、機械の手では隙間に入り込んだ煤を完全に除去することは難しい。人の目で確認し、ブラシをかける必要がある。
記憶のフィードバックによって、過去の僕が積み上げた経験がノウハウをまっさらな体に染みつかせている。だから、その時の僕も、難題が排気口であることを知っていた。排気口は遮温服の首元に設けられており、魚のえらのようにひだの層になっている。
僕たちが雪原で死んだ時、遮温服は残された死体の体温を保ってしまう。爆弾を放置するようなものだ。だから、雪を燃やさないようおおよそまる2日間かけて排気口は熱を外に逃す。重要な装備だ。だけど、向こうが透けて見えるほどに薄いひだの層から煤の粒をかきだすのはとても億劫な作業だった。
まごつく僕と違って、サクの手つきは鮮やかだった。髪を梳くようにブラシを引き、みるみる仕上げを終えてゆく。煤の粒にからんだわずかな油が、パッ、パッと火花を散らす。羨望の視線に気がついたのか、サクは僕を見返し、口をひん曲げた。やめてくれ、俺はナイフをもらえていない。いつもの口癖だった。皮肉屋のビスがそれを聞いて、大げさに苦笑してみせた。
サクは隊の中で最も若い。言い換えれば、彼は最新型でありカタログ上の性能は最も高い。でも、隊のリーダーはリィだった。最も古く、最も失敗せず、最も技術とノウハウと知識を蓄積した彼女にサクは敵わなかった。業務中、刃物が必要となる瞬間は多くある。しかし、所持が許されるのは隊で最も優れた1人だけだった。
理由は言うまでもない。火雪崩のリスクに繋がるからだ。遮温服は防刃性も備えているけれど、リスクはリスクだ。仮に業務中にリーダーが死に、刃物がなければ業務を続けられない事態になったとしても、他の誰かがそれを持つことは許されていなかった。火雪崩を起こさないことは、ケーブルを守ることに優先する。
あいつ、火雪崩を見たことがあるらしいぜ、とビスが言った。ドームが建設されてから、それが1度だけ起こったことを僕たちは教えられていた。それによって、どれだけの大人が死に、子供が死んだのかも。ドームもケーブルも当然耐火性を持ってはいるが、長く長く燃え続ける火は、それでも数え切れないほど多く、人の命を奪ったらしい。
年寄りだな、とサクが言う。お前もだろ、ビスが笑う。隊員の中で、教官より年若い者は1人もいない。最新型のサクですら、僕の記憶が正しければもう何十年もこの業務に就いている。しかし、前回の火雪崩を経験したものはリィだけだった。正確に言うと、火雪崩を起こしてしまったことで、リィ以外の全員の人格は完全な「別物」に作り替えられた。
本当の意味での「前の僕」がどんな奴だったのか、僕は知らない。リィに訊けばわかるだろうけど、訊こうとも思えなかった。そもそも、彼女は教えてくれないんじゃないだろうか。理由はないが、なんとなくそんな気がした。調整が必要かもしれない、とその日の僕は自分をそう評価した。
ーーー
食事をとるを時も、眠る時も、当然遮温服を脱ぐことはできない。だから、僕は車座になって各々の時間を過ごす隊員たちを、じっと観察していた。正面の隊員は、バンで間違いないと思う。身振りが大げさで無駄が多い。性能が悪いのではなく、バンは元からそう設計されている。そのバンにしつこくからまれ、すげない反応を返しているのはビスだろう。サクやリィに対して、バンはここまで親し気に接しない。
だとすると、必然的に僕の左右に座るどちらかがサクで、どちらかが5人目、あるいは生きていたリィということになる。左の隊員に視線をやる。パックの食事の封を切り、口元の注入器に内気を漏らさないよう慎重にセットしている。手つきは滑らかで無駄はなく、最適化されており、そこに個性を見出すことはできなかった。
ハンドサイン、という選択肢も考えた。通信機が壊れた場合の対応も、当然マニュアル化されていて、ある程度のやりとりは可能だった。実際、消火薬が壊れていることは既に伝えられており、対応策も立てられていた。僕がもし発火した場合、誰かがすかさず飛びつき消火薬を爆散させる。この時点で僕を殺しておくという選択肢もあっただろうが、排気にかかる2日という時間を考えると、リスクは前者の方が低い。
問題は、5人目だった。「正体不明の誰かが隊に紛れ込んでいる」「だが、それは僕が見た幻覚の可能性もある」 僕たちが覚えているハンドサインに、そんなことを伝える機能はない。策敵時のサインを応用することも考えたが、余計な誤解を与えて混乱を招くわけにもいかなかった。名前を尋ねることもできない。業務中、僕らは日ごとに変わる役割に従って数が割り振られ、ハンドサインはその番号にしか対応していない。
やはり、僕が考えるしかない。
まず、正体不明の誰かが紛れ込んでいる場合。確かな情報として、僕以外の4人に通信機の故障はない。これは観ていてわかったし、ハンドサインでも確かめた。彼らは問題なく声でやりとりしていて、見知らぬ誰かが紛れ込む余地はない。入れ替わりの可能性があるとしたら、バンか僕だ。捕まえた体と人格を再利用すれば、そっくりの偽物を作ることは難しくないはずだ。
だがこの場合は、僕の記憶が正しいことが前提になる。だとすれば死者はリィであり、バンの偽物が入れ替わることができない。突飛なアイデアとしては、5人目の正体は僕の偽物で、他の3人を言いくるめ、本物であるこの僕をリィだと思いこませているというものもある。通信のできない僕が、それに反論することはない。
……無理筋だ。やっぱり、僕が幻覚を見たという可能性の方がはるかに大きい。それに、偽物説を否定する方法は既に思いついていた。要はリィが生きていることがわかればいいんだ。
僕は食事のパックを取り出し、不器用なふりをして封を切るのに失敗してみせた。不自然ではない。完全に密閉されたパックを手袋で開けるのは難しく、上に対しても何度か改善要望が上がっている。あのリィですら、偶に失敗している。そんな時、彼女は必ずある行動をとる。
とんとん、と右から肩を叩かれた。誰かわからない隊員が、身振りでパックを渡すよう僕に伝えた。素直に従う。パックを受け取った隊員は、自分の装備の中からナイフを取りだし、封を切った。ナイフはリーダーしか持てず、リーダーが死んだとしても他の誰かが所持することは認められていない。
リィ。リィだった。生きていた。やっぱり問題があったのは僕の記憶だったんだ。だとしたら、僕が考えるべきは、僕を失神させた爆発の正体だ。他の4人が問題視してないということは、恐らく対応は不要だろうけれど……。
記憶の欠落が気味悪かった。そしてそれ以上に今の僕は狂っている。業務を終わらせたら、速やかに帰投し調整を受ける必要がある。濡れた黒髪にはらわれた雪。あの記憶が嘘だったことに落胆しているだなんて、それに動揺して思考を進めることができないなんて、そんなことあっていい訳がない。
ーーー
その日、蘇生室に立ち寄った理由を僕は思い出せない。教官に頼まれて物資を取りに行ったのか、在庫の体の保持液当番に当たっていたのか。部屋はドームの縁にあり、壁の一面が外壁と接している。ドームの曲線に沿って緩く曲がったその壁は強化ガラスでできており、外の様子を見通せた。役割がない時、リィがよくその部屋で雪原を眺めていることを僕たちは知っていた。この時も、そうだった。
リィは自分の体が収められたカプセルに腰をかけ、ぼんやりと外を眺めていた。僕が声をかけると、驚いたように振り返り、彼女特有の少し困ったような笑みを浮かべた。雪を見ているの、と言い訳をするようにリィは言い、雪原を指さした。
いつもと変わらない光景だった。薄灰色にくすんだ雪が降りしきり、ドームの壁面に付着しては薄く溶け、煤と油の染みをまだらに塗り広げていた。黒ずみ、てかり、粘液上に垂れ落ちるそれらは、分厚い雪雲の隙間から微かに漏れる陽光を歪め、ギラギラといやらしくリィの顔を舐めていた。
私、火雪崩を見たことがあるの、とリィが言った。違ったかもしれない。僕から火雪崩を見たことがあるかと尋ねたような気もする。いずれにせよ彼女はその時のことを語った。どんなミスが起きて、どういう原因で、雪原に火が点いたのか。それは教官に何度も教わったことだったが、彼女の口から聞くことで、全く初めて聞いた話のように思えた。
雪崩と名前がついているけれど、雪の雪崩とは全然違って、低い方から高い方にも火は伝わっていくの、と彼女は言った。
一度点いた火は、雪原上で連鎖的に燃え広がり、それは当然、上空から降りしきっている雪も伝って、逆回しに雪雲まで登っていく。雪原だけじゃなくて、空気も、空も、目に見える全てが真っ白に燃える。燃料である煤と油を燃やし尽くすまで、何年も、何年も、燃え続ける。
その話を聞いて、僕は何かを思いついたはずだった。彼女にそのことを尋ねると、彼女は大きく目を開いて、くしゃりと今にも泣きだしそうな表情を作った。何を思いついたんだっけ。何を尋ねたんだっけ。それがどうしても、思い出せない。
ーーー
隊列の2番手に僕はついていた。前で揺れる背中は、先導役であるサクのものだ。サクだけは最後まで特定することができなかったけれど、バン、ビス、リィがわかった以上、疑う余地はなかった。サクは敵に捕まったこともなく、偽物が作られている可能性もない。
爆発の正体は、結局わからなかった。敵……「海岸の連中」の襲撃があったのかもしれない。武装した大人の集団で、消火薬もどきを背負ってはいる。僕たちと比べると彼らは遥かに不出来で、不覚をとったとは考えづらい。でも絶対はない。事実、僕は一度捕まっている。それに今の僕ならありえる。人格に生じたブレの大きさはあまりにも深刻だった。
吹雪は既に止み、視界は晴れている。近いぞ、とサクがハンドサインを出したのがよく見えた。無風の中、深々と降る薄灰の雪の速度は不自然なほどに遅く、自分たちが空に向けてゆっくりと上昇しているような錯覚を引き起こす。遠くに、凍りついた大蛇のように横たわるケーブルが見えた。点検に備え、歩きながら装備を確認する。
くるぞ、と突然ビスの声が聞こえた。通信機が直ったのかと驚き、僕は反射的に振り返った。『ビス?』 ぼ、と鈍い音が聞こえ、サクが前から吹っ飛んできた。サクは明らかにおかしい角度で雪原に頭を打ちつけ、転がった。腹に拳よりひとまわり大きい、金属製の球がめり込んでいるのが見えた。
後ろのビスが僕に飛びつき、雪の上に引き倒した。そのタイミングはわずかに遅く、新たに放たれた金属球が僕の右脚をかすめて、骨を砕いた。遮温服が衝撃に反応し、脊椎に薬液を注射した。実感する前に痛みは吹き消され、壊れているなりに僕の思考はクリアになる。
倒れ込みながらケーブルの前に陣取る3つの人影を見た。明らかに大人のものではない。「海岸の連中」は、やはり僕とバンを元にして、兵士を作り出すことに成功していたのだ。折れた足の状態を確認する。立ち上がるのは無理だった。戦闘への参加を放棄し、僕は雪の中を掘り進むようにケーブルに向かって進んだ。
ケーブルを守ること。優先順位の2つ目。敵を倒すより、捕まるよりも大切なこと。頭上で金属が肉を打つ鈍い音が、何度も聞こえた。遮温服が擦れ、雪が激しく踏み荒らされる。サクは死んだだろう。僕を除き、3対3。リィがいるなら勝てるはずだと思った。だが、その判断は誤まっていた。
指の先にケーブルの硬い感触を覚え、僕はゆっくりと身を起こした。死体が7つあった。僕以外の全員が死んでいた。僕はそれを見て、ようやく思い出した。リィが自分の肉にナイフを突き立て、服を脱ぎ、火になった時。一体何が起きたのか。濡れた黒髪にはらわれた雪。あれはやはり嘘ではなかった。嘘であるはずがなかったんだ。
確認のために、2日待った。
食事はとらなかった。ケーブルの保全作業も行わなかった。僕はただ、時間が過ぎるのを待っていた。死体が冷え切り、遮温服が排気を終えるまで待つ必要があった。優先順位のことはわかっていた。実を言うと、僕だってリィと同じように教官の授業を暗唱することができたんだ。それでも僕は、ケーブルを放置した。
僕たちを襲った3人の死体を集め、その遮温服にナイフを突きたてた。リィの、いや、僕がリィだと思っていた隊員の死体からもらったナイフだ。肉ごと服を裂き開き、メットを持ち上げた。3人の死体は、バン、ビス、サクのものだった。ビスとサクは捕まっていない。偽物を作れるはずがない。本物の僕の仲間が、僕たちを襲ったのだ。
僕が仲間だと思っていた4人の死体は、案の定、どれも見覚えのない子供のものだった。1人、バンと似た風貌の者がいた。僕がバンだと誤認していた奴だ。たぶん「海岸の連中」が捕まえたバンを素体にして作った兵士だろう。技術を転用するにあたり、オリジナルは既に使い潰されたようだった。一緒にさらわれた僕の運命も、似たようなものだろう。
あの時、何が起きたのか。
ドームを出発した僕たちは、正体不明の5人組に襲われた。交戦の最中、僕はその中の1人に組み付き、もみ合っていた。敵の肩口に、リィの姿が見えた。メットに隠れ、リィの表情は見えなかったが、蘇生室でのくしゃりと歪んだ泣き顔を僕は幻視した。直後、彼女はナイフを取りだし、火になった。消火薬は僕と組み付いた相手の間近で爆散し、2人を吹き飛ばした。
その後、何が起きたのか。
吹き飛ばされた僕は助かり、相手はおそらく死んだ。僕を助けたのは敵の残った4人だ。彼らは僕を仲間と誤認し、助けた。恐らく僕が組み付いていたのは、僕をベースにした兵士だったのだろう。僕がバンの偽物をバンと誤認したように、彼らは僕を僕の偽物と誤認したのだ。ナイフは消火薬によって吹き飛んだものを、拾ったのだろう。
通信機が繋がらなかったのも当たり前だ。彼らは彼らの回線を使って話していたのだから。くるぞ、と聞こえたビスの声。あれはビスが通信機の圏内に入ったからだ。だけど、疑問もある。4人はどうして僕が敵兵である可能性を危惧しなかったのか。ハンドサインは何故通じたのか。パックも装備も、全て同じだなんてことはあるのか。可能性は1つある。
その後、何が起きたのか。
吹き飛ばされた僕は死に、相手が生き残った。僕の体と人格を素体にして作られたその偽物は、爆発のショックで異常をきたし、自分を僕だと思い込んだ。改造前のオリジナルからの記憶のフィードバックを受け、人格はブレを起こした。記憶は混濁し、思考力や注意力も低減した。アラートを見逃し、パックとの装備の差異を見逃し、無意識に元々覚えていたハンドサインを使った。
先ほど確認した4人の中に、僕に似た兵士はいなかった。バンがいたにも関わらず。だとしたら、隊の中でまだ顔を確認できていない僕こそが、その偽物である可能性は高い。だけど、疑問もある。通信に入ったビスの声。あれは僕が本物でないと説明がつかない。何より、僕は、僕が、僕でないとは到底思えなかった。
目に焼き付いた光景。濡れた黒髪にはらわれた雪。あの時、偽物はリィに背を向けていた。あれが記憶の混線によるものだとはとても信じられなかった。僕は、あの光景を見たはずだ。僕がこの目で。間違いなく僕が。
鏡はない。あったとしても減光膜が塗られたメット越しに、自分の顔を写せはしない。ぺたり、とメットに触れた。顔に触れようとしたのだ。手袋とメットがそれを邪魔をした。体をまさぐる。砕けた脚に、二の腕に触れる。分厚い服が邪魔をして何もわからない。遮温服の中にいるのは誰だ。確かめる方法は1つしかない。
僕の手にはナイフがあった。リィの、ナイフだ。
敵に捕まった。ケーブルを守らなかった。何度も何度も、この雪原で死んだ。それでも優先順位の1つ目だけは、まだ破ってはいなかった。この雪原で、それだけは犯してはならなかった。リィの時とは違う。消火薬の機構は壊れてしまっている。僕が遮温服を脱ぎ、発火した時、火雪崩を防ぐことができるものは、もうここには何ひとつない。
でも、仕方ないじゃないか、と僕は思った。君たちに責任はない、と教官は言っていた。僕たちは子供なんだから、仕方ない。いつの間にか、切っ先が自分に向いている。それを見て、僕はふと気になった。
そういえば、リィはどうして遮温服を脱いだんだろう?
ーーー
ゴン、ゴン、と遮温服を叩く音がする。
白い雪を見たことがない。どこまでも広がる雪原も、降りやむことのない雪も、すべては煤と油の混じった薄灰色をしている。そのことだけは覚えていた。いや、もう1つ。瞼の裏に焼きついた光景がある。濡れた黒髪にはらわれた雪。それはとても綺麗だった。彼女は遮温服を脱いだのだ。遮温服、とは何だろう。僕はそれを今叩かれている。言葉の響きだけが、頭の隅にこびりついてた。
ゴン、ゴン、と遮温服を叩く音がした。
思い出せない。だが、目を開くと着ぶくれした宇宙人が拳で僕のメットを打っているのだ、と根拠もなく思った。それはずっと昔から決まっていたことで、変わらないのだと。だけど、目を開くと、それが間違っていたのだとわかった。メットを叩いていたのは彼女だった。濡れた黒髪。隊の仲間。隊とは、何だろう。思い出せない。彼女の名前も。
彼女はぼんやりと立ち尽くす僕を引き起こし、体にこびりついたゲル状の粘液をタオルで拭った後、衣服を手渡してくれた。他人のもののような手足を動かしながら、まごついてそれを着る。辺りを見回す余裕がようやくできた。彼女が叩いていたのはメットではなかった。卵のような機械で、それは部屋の中にびっしりと産みつけられていた。僕が出てきた卵だけが中心から、ばっくりと、死骸のように口を開けていた。
部屋の壁の内、一面だけがうっすらと曲線になっていて、それは僕に半球のドームを想像させた。曲がった壁は透明で、部屋の外の様子が見える。彼女の他に、子供が3人、壁にほおを押し当てるようにひっつき、そこから外を眺めていた。皆、見覚えがあったが思い出せない。1人が僕に気がつくと、手招きした。
壁に寄り、外を見た。こちらを押しつぶそうとのしかかる薄灰色の山の向こうに、ぼんやりと光が見えた。光は気が狂った人の群れのように、ゆらゆら、ゆらゆらと揺れながら次第に大きくなってゆく。
自分の中で火がついたんだ、といつの間にか隣に来ていた彼女が言った。
敵の奇襲を受けたとき。それが、私たちの仲間だとわかった。それに気がついたら、めちゃくちゃになっちゃった。我慢できなくなって、かんしゃくを起こす子供みたいだってわかっていたけど、耐えられなかった。背中の消火薬のことも頭になかった。失敗したね。私だって失敗するんだ。自分の体温が、薄くひかれた境界線を通り越して、火になるんだ。
光は歌うように身を揺らしながら、こちらに近づいてくる。山肌の斜面を駆け下り、降りしきる薄灰色の雪をたどるように空高く手を伸ばす。雪原も、空気も、空も、全てが燃えていた。針を刺すような光量が、眼球の奥を突いて、痛む。それでも僕は目をそらせなかった。それが何なのか知っていた。見たことはないけれど知っていた。
火雪崩だ。
そうだね、と彼女は肯いた。
一度点いた火は、雪原の上で連鎖的に燃え広がり、降雪をたどって雪雲まで到達する。それは何年も何年も燃え続け、子供も、大人も、ドームも、ケーブルも焼き尽くす。雪の中に含まれた煤と油をすべて燃やし尽くすまで。
だとしたら。
そう口にして、僕は思い出した。あの時、彼女に向けた質問。あの時がいつかはわからない。それでも、僕はそう尋ねたはずだった。
「火雪崩の後は、真っ白な雪が降るのかな?」
僕の隣で、彼女が息をのんだ気配があった。それがふっ、と緩む気配も。僕はもう既に視界のすべてを覆い尽くそうとしている光から目をそらせず、彼女の表情を伺うことはできなかった。それでも、彼女が浮かべている表情を僕は簡単に思い浮かべることができた。知っていたから。燃えて、炙られ、焼きついている。濡れた黒髪にはらわれた雪。あの時と同じ顔をして、彼女は言った。
「それを、見せてあげたかったの」
【終わり】