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FOOLという名のBAR

第5夜 I Loved

#創作大賞2023 #恋愛小説部門

「午前四時頃、ふと目が覚めた時に気づいてしまったの。彼と私の心音がズレているって。今更?だと思ったけど、気になってしまって。必死に合わせようとするけど、心音を重ねるなんて無理。だから、そのカクテルがリメンバーという名前なら、私、飲めないわ」
 と、エムは微笑みながら言った。
 カウンターの隣には常連客の恋次郎がいて、あたしのオリジナル・カクテルのリメンバーを飲んでいるのを見て、エムが興味あり気な視線を投げたから、
「リメンバー、飲みたいなら奢るよ」
 と恋次郎が気を利かせてくれたのに対してエムが答えたのだ。
「だって、私は終わらせた恋は忘れたいから、“忘れない”なんてカクテルはだめ」
 と、ホントは飲みたいけど飲まないのだと言いたいようだ。

♪ Once I Loved

 マリアのピアノが絶妙なタイミングで流れて来た。
 左手の薬指が動かなくなったピアニストのマリアが弾くピアノ曲はその瞬間の客達の心を映すと言われていた。好きだった男の腹に刺さっていたナイフを必死に引き抜こうとして左手の薬指を傷付けてしまったマリアは華やかな音楽業界からここへ彷徨い流れついた。
 カウンター席が五つしかないこの店では、奥のアップライトのピアノが占める面積は大きい。そして、そのピアノを奏でるマリアの存在も大きくなった。
 何処にでもある繁華街の小さなビルの地下にあるこの店は、
 FOOLという名のBAR
 ここは、愚か者が静かに酔い潰れるための店。

「ママのオリジナル・カクテルなの?それもあなた専用のカクテル?、えっと?」
「恋次郎と呼んでくれ、恋多き青年さ」
「青年?」
 エムはわざと顔をしかめて見せた。
「中年だよね」
 あたしが合いの手を入れると、恋次郎は肩を竦めて笑った。
「初めて会うよね?」
「うん、何度か仕事の打合せの後、ここに連れて来てもらっただけだから」
「ふうん、仕事かあ」
 恋次郎はちらっとあたしを視た。
「なんだい恋次郎?」
「いや、あんまり話しかけてはいけないかな?と思ってさ」
「彼女次第さ、あたしは保護者じゃない。エム、迷惑ならあたしに言ってくれ。遊び人を店の外に摘まみだしてあげるからさ」
「ママ、大丈夫よ。恋次郎さんは何となく紳士みたいだから」
「紳士、恋次郎はいつもそう呼ばれるね」
「紳士だからさ。あっそうだ、ママ、エムちゃんにカクテルLost・・・を」
「はいよ」
 あたしはカウンターにプリマス・ジン、PASSOA、ライムジュースを並べた。それぞれを一対一対一で、シェーカーに入れてシェイクした。氷を詰めたロング・グラスに注ぐと、トニック・ウォーターでグラスアップしてステア。最後にアンゴスチュラビターズ五ダッシュを氷の上にフロート。
 エムの前にカクテル・Lost・・・を出した。
 恋次郎がグラスを掲げるとエムは嬉しそうにグラスを持って、
「ありがとう、頂きます」
 Lost・・・と、リメンバーのグラスを合わせた。
「あっシャープ。でもほんのりと甘さが漂って美味しい。恋を失くした味かしら」
「僕も恋を失くした時に、このカクテルを飲ませてもらったんだよ」
「ふうん、でも今は、リメンバー、“忘れない”というカクテルなの?」
「そう、恋次郎を捨てた女がね、Lostではない、リメンバーだと伝言を残してくれてね。ロング・グラスからショートに変えてレシピも少しいじったのさ」
 とあたしが言うと、エムは納得したという様に大きく頷いた。
「それからママ、私の名前を覚えていてくれたの?嬉しい」
「エムと一緒に来た、沢村正義はここの常連客だからね」
「正義の味方弁護士事務所というふざけた看板を上げている弁護士先生だったね?弁護士関係の仕事なの?」
 恋次郎は直接、沢村正義を知らないかも知れないが、この街にいる愚か者なら、噂くらい聞いているのだろう。
「そこに正義がない限り弁護を引き受けないという沢村先生が投げた悪党の仕事を何度か回してもらったの、うちの先生は」
 悪党の仕事を回してもらったと言った時にエムは悪戯っぽく笑った。
「ふうん、普通の弁護士だね」
「お金になる仕事が好きなのよ」
 恋次郎が肩をすくめて笑いながら、あたしに視線を向けたので
「正義先生が変わり者なんだろうさ」
 と答えた。
「うちの先生は仕事を紹介してもらって儲かったら、私が沢村先生の事務所にお礼の品を届けに来ていたの。正義の味方は決して賄賂は受け取らないから。お菓子と」
「お菓子?それから?」
「ふふっ。それから、私のスマイルよ」
「なるほど」
 恋次郎が大きく頷いた。
「正義先生はお菓子だって受け取るつもりはないだろうさ。でもエムが足を運んで来
たことに対して倍返ししたいと考えてここに連れて来たのだろ」
「私の顔をたてるためにお菓子を受け取ってくれたのだと思うわ」
「正義先生はママにぞっこんなんだろ?彼女の事務所の先生ならここへは連れて来ないだろうから、ライバルを増やす真似は決してしない。エムちゃんが女の子だから連れてきたんだろう」
「ママにぞっこんなんだ?正義先生。でもそれは何となく感じたわ」
「何かにブレそうになった時、ママを求めるのさ。ここの愚か者達は」
「ブレない、信念を貫く女?ママはそんな女なのでしょうね」
「ママは、一人の男だけを待ち続けているのさ、無期懲役、帰れるあて等ない男を」
「愚か者さ、あたしのために人生を棒に振っちまった」
「悲しいね、ママ」
「ふうん、仕方ないさ。女、だからね」
「女、だからか」
 とエムは言って、Lost・・・を飲み干した。それを見ていた恋次郎もリメンバーのグラスを口にあてると頭を動かさないで手首を返すようにして喉に放り込んだ。

♪ Once I Loved

「いい曲」
 エムは心地よいという顔をしてマリアのピアノに耳を傾けていた。
「マリアのピアノは心を映す。ママ、僕にはバーボン・ソーダを」
 と言ってから恋次郎はエムの顔を見る。
「私も同じものを」
 恋次郎が頷いた。
「奢ってもらうなら同じもの。それって普通でしょう?」
「大人だね、まだ若そうなのに」
「そうね、まだ若いわ。でも心はもう、しわしわ」
「何故?と聞いていいのかい?」
「女、だからよ。なんてね。うちの先生に大人の世界を散々教えられたから」
 と言って、エムはあたしに視線を向けて笑った。
「エムの笑顔は嘘がないから好きだよ」
 と言って、あたしは恋次郎のボトル、ワイルド・ターキーでバーボン・ソーダを二つ作って二人の前に置いた。
「恋次郎さんの優しさに乾杯」
「ありがとう」
 二人は軽くグラスを合わせた。

♪ Once I Loved

「この曲のことを知っているなら教えて」
 エムはあたしと恋次郎を交互に見ながら聞いた。
「この曲はOnce I Loved 愛してた という曲だよ。元々はボサノバで原題はAmor em paz かつての愛。マリアはジャズ風にアレンジしてくれているのがまたいいね」
「愛してた・・・か」
 エムは一瞬、遠い目をした。
 恋次郎は続けようとした言葉を止めた。この曲は、かつて愛した恋人と別れて絶望しているところに、また恋人と再会し、よりを戻す。今度は別れないと再燃する恋心の歌詞がついている。でも、恋次郎はエムが恋を再燃させたいと願っていないことに気づいたのだと思う。だから、言葉を止めた。
「今日も正義先生の所にお礼に来たのかい?」
 あたしは話題を変えようとした。
「違うの。お別れを言いに。それから、ここで飲みたいと思ったから」
「お別れ?正義先生にかい?」
「私ね、弁護士事務所を辞めたのよ」
 恋次郎もあたしもその言葉に反応しても顔には出さず流した。
「悪党を救うのが嫌になっちゃったから」エムは冗談めかした言い方をした。「なんてね。そんなことは嘘だとお見通しよね」
 恋次郎は思わずエムに顔を向けた。あたしはまだ、反応せずに流した。
「うちの先生と別れたからよ。うちの先生は月の半分は私の部屋に泊ったわ。そして半分は奥さんと子供がいる自宅に帰るの。そんな生活を十年も続けてしまって私は三十二才になってしまった」
 限界だった。あたしもエムに視線を向けてしまった。
「愛人生活で、私の青春時代は消えてしまったわ。恨んでいる分けではないわ。後悔?悔しさ?何だろう?」
「思わぬ答えだったよ」
 恋次郎が口に運ぼうとしたグラスを止めて答えた。恋次郎が動揺しているのが分かった。
「彼のケータイのメールを読んでしまったの」
 あたしも恋次郎も黙ってエムの話を聞いていた。
「子供からのメール。誕生日には何が欲しい。連休には遊園地に行きたい、とかね。そんな幸せな生活の場面ばかり」
「そうかい、そうだったのかい」
「私、子供が欲しいと言ったの?でもね、先生は子供ならもういると言って、それ以上はその会話はさせてくれなかったわ」
「ずるいね」
「でも、私もずるいよね、そんな答えが返って来ると予想していたもの。でもね、言わずにはいられなかったの」
 エムはグラスを傾けた。
「私、いくら飲んでも酔わないの。先生に鍛えられたから」
 そして一気にグラスを飲み干した。
「私、この十年で大人の社会を嫌というほど見て来た。何を求めていたのだろう?」
「幸せ?」
 恋次郎の問いに、エムは首を振った。
「愛人生活の未来に幸せなんてあるはずがない。それは気づいていたと思う。私、奪いたかったのかな?嘘で塗り固めた幸せの形って奴を」
「嘘で塗り固めた虚構の街を、全部黒く塗り潰してしまいたいと言った刑事がいたよ。そうすれば何が正しくて何が悪いのかさえ分からなくなるからと」
「なんか、ハード・ボイルドな会話ね」
「その刑事は、犯罪者となったかつての親友を自分の手で捕えるために裏社会と癒着した」
「弁護士が必要ね」
 とエムは悪戯っぽく笑った。
「必要なのは正義の弁護士?それとも悪い弁護士かしら」
 と言ったエムに、あたしは答えることが出来なかった。

♪ Once I Loved

 マリアのピアノ、それは一種の現実からの離脱に必要なキーになる。今宵もマリアのピアノに心を乗せることで救われたような気がした。
「私ね。世界一周旅行して来たの。全部を切り捨てるために」
「それはいいね」
「でもね。帰って来ると、周り中がまた、同じ鞘に収めようと私を巻き込むのよ。人は今ある形が壊れることを恐れるのかしら?」
「世間って奴は変化を嫌うものかもね」
 恋次郎が呟いた。

「うん、私もそう思った。だから、ここにも来たの。終わったってことを伝え歩くことでそこにはもう戻れないように」
「戻れない、戻らないという意思表示のためにね。終わらせた恋にけじめをつけたいのだね、エムは」
「忘れてしまえばいいの?」
「恋次郎も忘れようとした。でもそれは忘れた振りをしようとしただけ。忘れることなど実際は出来ないものなのさ」
「ひきずって生きていくってことなの?」
「引き摺るのではない。積み重ねるのさ」
「なるほど、ママの言うことは未来に繋がる」
「そう、過去の上に今がある。今を経験して未来が来る。その経験をどう、生かすかでそれぞれの人生が変わるのさ。また同じことを繰り返してしまう者もいる、同じ過ちはもう犯さない者もいる。お前達はどちらを選ぶのか?あたしはこのカウンターの中で見ているだけ」
♪ Once, once I loved
And I gave so much love to this love you were the world to me
Once I cried
At the thought I was foolish and proud and let you say goodbye

And then one day
from my infinite sadness you came and brought me love again
Now I know
That no matter what ever befalls I’ll never let you go
I will hold you close, make you stay
Because love is the saddest thing when it goes away
Love is the saddest thing when it goes away

♪ 私は愛した
おそらく 愛しすぎたんだ
自分自身が苦しむとわかった時
絶望するとわかった時
私は泣いた
すると 終わりのない悲しみの底から
あなたが現れたんだ
あなたの中に
私は生きる理由を見出して
平和に愛する理由を見つけた
もう悲しまなくてもよくなった
壊れた愛ほど悲しいものはこの世にはないのだから
愛の終わりほど悲しいものはこの世にはないのだから

「記憶は消せない。過去にするだけさ」
「へえ、恋次郎もいいことを言えるようになったじゃないか」
「これでも、ママの説教を聞いて成長しているのさ」
 今度はあたしが肩を竦める番だった。
「ハード・ボイルドな会話ね。ねぇママ。私にもカクテルを作ってもらえる?」
「お安い御用さ」
 パルフェタムール、プリマス・ジン、ブルーベリーリキュール、レモン果汁を15mlづつ、シェーカーに入れてシェイクした。
 きっちり二杯。恋次郎の分は、オールド・ファッションド・グラス、エムの分はカクテル・グラスに注いだ。
「暁の空のイメージで作ってみたよ」
 二人は、一息にグラスを空けた。
「夜と朝の境界線、求めるのは朝か?夜の続きか?」
 恋次郎は空のグラスを置いた。
「最初にポワ〜と甘味が広がったと思ったのに、後味がさっぱりしたカクテル、理想的な恋の味かしら」
 エムがグラスを掲げて微笑んだ。 
「カクテルの名前は、そうね、午前4時はどうかしら?」
 暁の空に、朝陽を求めるか、夜の延長を求めるかは、その時の状況で人それぞれ違っている筈だ。エムが求めるのは新しい朝か、それとも夜の延長か、次に彼女がここの扉を開いた時には分かるだろう。
 今宵の最後の曲は、美羽希。の曲、

♪ 午前4時

 ここは、FOOLという名のBAR
 愚か者が静かに酔い潰れるための店

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