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ゴーゴリと「意識という檻」について

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※単行本のネタバレを含みます。

私は過去に書いた考察の中にいくつも気に入っていない考察がありまして、その代表格がゴーゴリの考察です。
(→ゴーゴリ解体ショー
当時はゴーゴリを罪悪感と結びつけて考えていましたが、ちょっと違うよな…とずっと思っていたので、もう一度ちゃんと捉え直すために再挑戦します。
ゴーゴリは挑戦し甲斐のある男です。
挑戦し甲斐がありすぎて、ちょっと食べては匙を投げ、ちょっと食べては匙を投げを何度も何度も繰り返し、取っ散らかした挙句になんとかようやく少しだけ形にできました。

それでもなおゴーゴリの全容を把握することは当然できず、考察はまだまだ道半ばですし、たぶん永遠にこの男を掴みきることはできません。
この世の誰にもゴーゴリを真の意味で理解することはできないんじゃないかという気さえしています(ドスくん以外は)。

ということで、この記事ではゴーゴリの主題である「意識という檻」について書いていこうと思います。

「意識という檻」とは

温かく湿った地獄である頭蓋骨。
ゴーゴリが言うこの地獄とは、脳のことであり、意識のことであり、それは同時に文スト世界のことでもあると思う。
意識の限界、思考の限界が私たちの見る世界の限界を作っている。
それはまさに檻のように私たちの感知する世界の最果てで境界線を築いている。

囲っているものは厳密に言えば二つあると思う。
集合知の最も外側にある世界の境界線と個々人の認識の限界となる意識の檻。
文ストの登場人物も私たちも二重の檻の中に閉じ込められている。

■「世界の境界線」という意味での檻

これを理解するためにまずはひとつ考え方の実験をしてみたい。
問いはこうである。
「この現実世界で中島敦がある小説を書くことと、文スト世界の中で中島敦がある小説を書くこととの間に、本質的な差異はあるのか?」

文スト世界の中の中島敦は朝霧カフカという存在によって「小説を書かされている」のであり、本人の純粋な動機のもとに行動していないと言える。
しかし現実世界の文豪中島敦が小説を書くのも、現実世界の外側にいる誰か(人は通常それを神と呼ぶ)にそう運命づけられて書いている可能性を否定する方法がない以上、異なる次元に存在する二人の人物が同じように小説を書くとしたら、その行為の間にある差異を説明することはできないのではないか。
現実世界の神は私たちにとってまったくの未知なる存在であるが、それと同様に文ストの敦にとっても朝霧カフカは畏怖すべき未知の存在である。本当に存在するかどうかもわからないいわば幻想や信仰に近い存在。

登場人物たちの感知する世界は文スト世界の内部だけであり、その境界線の外であるこちら側、私たち読者の三次元の世界を知ることはできない。
それと同じように、私たちもこの世界の外側にあるかもしれない世界については何一つ知ることも感じることもできない。
だからといって外側になにもない確証はどこにもない。
もしかしたら私たちだって、どこかの誰かが書いた物語の中を生きているのかもしれないし、この世界は別の次元に存在するデータから生み出される仮初めの幻影にすぎないかもしれない。

だとすると文スト世界も私たちのこの三次元世界も本質的にはなにも変わらず、現実と虚構の垣根が消えた同じ強度を持つ対等な世界同士だといえる。
それが入れ子のようになっていて、それぞれに世界の境界線があり、世界線は幾重にも連なっている。
どの世界線においても、その世界に属する人はそれぞれの世界が持つ閉ざされた構造体の中を彷徨い歩く住人であり、死以外の方法でその檻から逃れることはできないのだろう。

人の意識は世界線を超えられない。例え物語を俯瞰する立場にあったとしても意識をそっくり物語の世界の中に入れ込むことはできず、人の意識はその人の身体がある場所、すなわち頭蓋骨がある世界線に窮屈にも囚われてしまう。

■「意識の牢獄」という意味での檻

ゴーゴリが獲得しようとしている「真の自由意志」とは、世界の捉え方を変えようとする行為であり、意識の檻の形を広げたりゆがめたり曖昧なものにしようとする試みだと思う。この場合の檻とは、世界の境界線ではなく個人の意識の限界に築かれている檻のことだろう。

倫理、道徳、罪悪感、感情、人の脳の中に無意識のうちに刻み込まれてしまっているあらゆる拘束から逃れるために、ゴーゴリは全てに反抗する。
「神に抗い、自分を見失うために戦っている」という言葉の神とは「世界を規定しているものすべて」。
その中において「自分」という存在は、認知という土台の上に成り立っていて、「自分が見る世界の景色の中に含まれる自分」である。
「自分が見る世界」を構成している見方そのものをごちゃまぜにしてしまえば、自分とはなにかという定義さえも曖昧になる。もともと築かれていた意識の檻は柔らかく歪み、新たな檻を形成し始める。
そうして少しずつ檻を変容させることで自由を獲得しようとしているのかもしれない。

しかしそれでも人は完全には意識という檻から逃れることはできず、寝ているときでさえもその支配下にある。
唯一突破できる方法は先ほどと同様に死であり無に帰すことだろう。
本物の自由に到達するためにはおそらく死しか手段としてはありえない。
しかしゴーゴリはそれを決行できなかった。
たった一人の理解者である友人がそこにいたから。
世界を完全に見捨てることはできなかった。
何かの可能性を感じてしまったから。

ゴーゴリはそこに、自分を檻に縛りつける鎖を見つけたのかもしれない。
その鎖を断ち切らない限り、自分は自由のもとへは飛翔していけない。
唯一の友人に対して感じてしまったその感情を、その鎖を、自らの手で断ち切らなければ、囚われの身のままどこへも動けなくなってしまう。
だからドスくんを殺す。
殺すという行為を通じて、鎖を破壊する。
実際にドスくんが死ぬかどうかは、この場合重要ではない。
なぜならゴーゴリは自分の感情に反した行動を通じて鎖を破壊しようとしているだけであり、ゴーゴリにとって大切なのはドスくん本人の生死ではなく彼を縛り付ける鎖のほうだから。
鎖を断ち切りながらもドスくんは救う、その方法として考え付いたのがゴーゴリゲームだった、という風に受け止められるような気がする。

ゴーゴリゲームを通じて鎖を断ち切ることに成功したその先でゴーゴリが何を成そうとしているのかはまったく想像がつかない。
しかし、ゴーゴリが語った言葉に含まれる重みとその悲痛な叫びは感じ取ることができる。

ゴーゴリの叫びは、文豪たちが超えようとしても決して超えられない「意識の限界」の姿を浮かび上がらせるものであり、その檻の奴隷となっていることを自覚する苦悩の叫びである。それと同時にそこから繋がる死という選択肢への逃走劇である。
そしてその苦悩と逃走への欲望は、多くの文豪が心密かに抱いてきたものを象徴しているような気がしてならない。
ゴーゴリの顔には、文豪という存在が抱え込んだ宿命的な悲劇が、その表面上の喜劇に覆い隠されるようにして存在している、そんなように感じられる。



前回の考察よりはだいぶ深いところまで行けた気がするので、一旦おしまい。
もっと内容わかりやすく〜ってずっと悩みましたが、これ以上わかりやすい言葉でゴーゴリを説明できなくて撃沈。読んでもらった皆さまにはご負担をおかけしました。

もうすぐアニメのゴーゴリに会える!
難しい話はほどほどにしてゴーゴリのチャーミングな活躍を画面でいっぱい楽しみましょう!


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