ゴーゴリ解体ショー

※この記事はマンガ文豪ストレイドッグスの考察です。
単行本と小説BEASTのネタバレを含みます。

天人五衰のメンバーであるドストエフスキーとゴーゴリとシグマ。
この3人はキャラ設定上、一つの繋がりがあるように思う。

ドストエフスキーの『罪と罰』の中には「凡人」と「非凡人」という概念が登場する。そして文ストの中で、シグマは凡人でありドスくんは非凡人だ。
実はこの二つの間に「非凡人になりたい凡人」というカテゴリーが隠れている。『罪と罰』の主人公はこのカテゴリーに属する人だった。
そしてゴーゴリというキャラクターにはこの「非凡人になりたい凡人」が反映されているように思う。

以下がその図である。

ゴーゴリの表の顔は文豪ゴーゴリご本人から着想を得ているようだが、裏の顔にはドスくんに反映できなかったドストエフスキーの思想の一部が反映されているのかもしれない。

それでは、ここからはゴーゴリの抱える葛藤や彼の求める自由とは何かについて考えてみたいと思う。

彼は何から自由になりたいのか?

ゴーゴリは「非凡人になりたい凡人」であり、悪を行いながらも心の中に葛藤を抱えている。彼を理解するにはまず彼の葛藤の源である「罪悪感」や「道徳心」とはなにかを理解する必要がありそうだ。

人が罪を犯したとき、その人を苦しめるのは他人(もしくは神や法律)から下る罰への恐怖ではない。
人を最も苦しめるのは、その人の心の中に生まれる罪悪感だろう。

ほんの小さな嘘や偽り、人を傷つけてしまった行為、そんなものからも罪悪感は生まれる。ほんの少しの罪悪感だとしても、それは人生の長い時間、自分の頭の中で忘れらない記憶として留まり、自分を苦しめ後悔を生み出す。
そしてその罪が重く罪悪感が大きいほど、人の苦しみは重く深くなり、心を蝕んでいく。次第に人生に希望を見いだせなくなり、絶望とともに生きていくことになるのだろう。

人は他人から罰を受けるまでもなく、自分自身で自分を罰するようにできている。
そしてその罪悪感=自分が自分に与える罰は、誰に教わるわけでもなく、人に生まれながらにして備わっている機能だ。

では、罪悪感は何から生まれるのか?
おそらく、道徳や理性こそが罪悪感を生み出す根源だろう。
道徳や理性がなければ、人に備わっている自分を罰する機能、つまり罪によって苦しむ本能から解き放たれる。
何もしても心は自由となる。
それこそが、ゴーゴリの求めているものなのだろう。

では、道徳はゴーゴリの言うように本当に「生得的洗脳」なのだろうか?

道徳とは生得的洗脳なのか?

理性や道徳が人を人たらしめる。それがなければ、獣と同じ。
道徳は霊長類が進化の過程で種の存続のために獲得したものだそうだ。
争いによる無駄な死を避け、集団生活の秩序と安定のために獲得した本能。
道徳性は人だけでなくチンパンジーなどの他の霊長類にも見られるものであり、人が後天的に獲得したものというよりも先天的に本能に刻み込まれているものらしい。

だとしたら道徳というのは、まさに洗脳だ。息をしたり笑ったりするのと同じで逃れることができない。
人の行動を規定してしまう、たちの悪い洗脳かもしれない。
人は自分の意志で選択し行動していると思っていても、それは道徳心が底支えしている上に成り立っている自由意志であり、究極の自由意志ではない。

ゴーゴリは自分の行動や感情を規定する無意識領域の支配から逃れようとしている。
人間であることを否定しようとしている。
彼は人ではない何か、それこそ鳥や獣のような自由を手に入れたいのだろう。

ゴーゴリが自由を追い求めるようになったきっかけや、自由を求めるその目的は不明のままだ。
彼は本人の言う通り、敢えて犯罪を犯して、自分は洗脳から自由であると自分に証明しようとしているだけなのか。
あるいは、実は罪悪感から逃れるために、自由になろうとしているのか。
本当のところ、どちらなのかはわからない。

ただ、彼は人としての温もりや優しさを抱えているように感じる。
ドスくんが自分を理解してくれたことに喜び、彼を親友だと慕っている。
ゴーゴリの見せる本当の姿は、どこからどう見ても心を持ったまともな人間の姿だ。
非凡人になりきれない、血を踏み越えることのできない心優しき凡人。

そんな彼が親友であるドスくんを殺すことに成功したら、彼は真の自由を手に入れることができるのだろうか?

罪悪感を抱えた人が行きつく先。

自由を追い求めた先に、また別の自由を追い求めるゴーゴリ。この追いかけっこは永遠に続きそうだ。
彼が純粋に自由を求めていて、その過程も含めて楽しんでいるというのなら、ぜひ彼には自由を掴んでほしいと思う。
ただもし彼が罪悪感から逃れるために自由を求めているのだとしたら、この逃走劇の先に彼の求める自由は存在しない。

では、罪悪感から逃れる方法というのはあるのだろうか。
BEASTにも「罪悪感」というテーマが出てくる。
院長を殺してしまった敦の回想の後に、芥川は敦が抱える苦悩に対して「それは罪悪感だ」と言った。敦は違うと否定したが、あれはおそらく罪悪感だ。なぜなら、ポートマフィアの屋上で芥川に殺されかけて死ぬつもりでいたとき、敦が最後に言った言葉は「ごめんなさい、院長先生」だったから。
死ぬ直前の懺悔。
懺悔をするのは罪悪感が彼を支配していた証であり、死ぬ直前にどうしても謝罪しなければいけないと思うほどに強く彼を縛り付けていた。

罪悪感から逃れる方法は、実際のところ限られていると思う。
罪の告白をし、謝罪し、悔い改める。
赦しを受ける。
もしくは法や神に正しく罰してもらう。
このような過程を経ることでしか、人は罪悪感から解放されない。

ゴーゴリがドスくんを殺した先に本当の自由を感じるのか、それともただ罪悪感が積み増されるだけなのか、今後の展開が楽しみである。

自由を証明するのを応援したいという気持ちと、罪悪感から解き放たれて心優しき凡人であることを受け入れてほしいという気持ち、両方が混在した気持ちにさせてくれるゴーゴリ。
複雑な人格を持つ彼だからこそ、色んな視点で捉えることができて、色んな解釈ができる魅力的なキャラクターだと思う。
こんな素敵なキャラクターに出会えたことが素直にとてもうれしい。


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