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ドスくんは天使と悪魔に引き裂かれている

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。

ドストエフスキーというキャラクターの中には、『罪と罰』の主人公であるラスコーリニコフの特徴がよく反映されています。そのさらに奥にはラスコーリニコフに投影されたドストエフスキー自身の影が、また同時にドストエフスキーの思想を凝縮したと言われている『悪霊』のスタヴローギンの影が隠れているように思います。
彼らに共通する特徴は「引き裂かれている」ということ。
ドストエフスキー作品とドスくんとの共通点から、ドスくんというキャラクターの深層をのぞいてみようと思います。

ラスコーリニコフとの共通点

罪と罰の主人公ラスコーリニコフは、揺れ動き、翻弄された青年でした。ナポレオン思想に触発されて、非凡人として正義のための殺人を行うのですが、犯行に至るまで、そして犯行後も、さまざまな思想と感情の中で絶え間なく揺さぶられ続けます。
そんな彼は二つのものに引き裂かれていました。

主人公は、徐々にはっきりと二つに割れていった。それは、虐げられた人々への愛と、人間、いや人類そのものに対する軽蔑の二つにである。
彼の心のなかでは、弱者に対するはげしい憐れみと、「悪魔的な傲慢さ」が交互に入れ替わる。
この分裂こそが、ラスコーリニコフ、「断ち割られた」青年の起源なのだ。
『罪と罰』ノート 亀山郁夫

ラスコーリニコフは、絶えず二つのささやきの声を受けて行動していた、といいます。
ロシアのドストエフスキー研究者はその二つが神の声と悪魔の声であることを見い出し、ラスコーリニコフのことを「神の配剤と悪魔の誘惑の見きわめがつかないのだ」と言っています。
主人公は神と悪魔に引き裂かれていた、ということになります。

二つに断ち割られているという人間性は、ドストエフスキー自身の中に既に存在していました。そのことをドストエフスキー研究者の方はこう表現しています。

彼(ドストエフスキー)の精神は、正と負の両極に引き裂かれ、ときに、深い人類愛とゆたかな共感にあふれるかと思えば、あるときは、善と悪の観念を見失うほどに支離滅裂な行動に走りました。
『悪霊』神になりたかった男 亀山郁夫

そして、善と悪に引き裂かれているこの特性は更に濃縮され、ドストエフスキーのエッセンスが凝縮していると言われている『悪霊』の中で主人公スタヴローギンに投影されます。

『悪霊』をとおして私が学んだのは、人間の魂のもつ果てしない振幅であり、同じ魂の深み、同じ次元のなかで対立し、せめぎあう地獄と天国でした。並みの人間のはるか上にその神々しい身を置き、並みの人間のはるか下で浅ましくおぞましい内面をさらけ出すスタヴローギン。
『悪霊』神になりたかった男 亀山郁夫

これらのことから罪と罰の主人公のみならず、悪霊の主人公、さらにはドストエフスキー本人までもが神と悪魔の二つに引き裂かれていたことが伝わってきます。

そしてこの特徴はまさに文ストのドスにも当てはまるのではないかなと考えます。
振り子のように、天使的な姿と悪魔的な姿を往ったり来たりしている。
読者はそれに惑わされ、ドスの本質や目的を掴めない。その魅惑的で一元的でない特性に、彼の魅力と「ドストエフスキーらしさ」が存分に込められているように感じます。

ドスを引き裂くものはなにか

ドスは神と悪魔に引き裂かれている、と言いましたが、これはあまりにも抽象的です。神とは具体的に何で、悪魔とは具体的に何なのか。
ドスは一体誰の声を受けて行動をしているのか。

仮説はいくつか挙げられます。
・色々な天使や悪霊が彼のもとを訪れている、ドスは預言者のような存在
・天使ミカエルと堕天使ルシファー、双子の兄弟であるこの二人の声に従っている
・堕天前のルシファーと堕天後のルシファーの声に従っている

思いつくのはこの辺りですが、先に書いた「異能力者とは堕天使なのか」の記事のとおり、文ストが堕天使の物語を描いているのなら、ドスは堕天前の自分と堕天後の自分の両者に引き裂かれているルシファーなのだという考え方が個人的には好きです。

また、探偵社は宵の陽光として表現されていますが、ルシファーは明けの明星だと言われているので、探偵社の対極に位置するドスがルシファーというのはあり得なくないかなぁと考えています。

善悪の彼岸にあるもの

第42話 咎与うるは神の業で、ドスはカルマに「悪ですらない彼岸の存在」と言われていました。善悪の彼岸に立つ非凡人、このモチーフもドストエフスキー作品の中にはよく登場します。

例えば『悪霊』の中でスタヴローギンは「好色で獣的な行為と、たとえば人類のために生命を犠牲にするような偉業との間に、美の差異は認められない」というおぞましい思想を披露します。

善も悪もない、とする視点は、この場合、「美の差異」という視点が根本にあるのです。美とは、あくまでも感覚的なものであり、理性の判断によるものではありません。美に善悪の判断を含ませないという考えは、まさに神=超越者のまなざしを暗示するものとなるのです。このとき、世界は、美と醜というカンバスのなかに収斂され、人間の善悪、そして悲喜こもごもはその色合いのなかに封じ込められ、差異を失うからです。
『悪霊』神になりたかった男 亀山郁夫

神が設けた善悪という視座を放棄させ、美しさという視座に置き換えてしまおうとする傲慢さ。
それはすなわち神への殺意であり、神の立ち位置を奪おうとする行為でもあると思います。
「神は完璧と調和を好む」「その方が美しいでしょう」というドスの言葉は神の意志を尊重しているようでいて、同時に神を冒涜するものでもあると言えるのかもしれません。なぜならその中に神が定めた善悪の基準は含まれていないからです。
この観点においても、やはりドスは神と悪魔に引き裂かれていると考えられます。

善悪の彼岸に立ち、美しさを至高の価値観に据える。
ルシファーが美を司る最高位の天使であったことを考えると、これは非常にルシファー的な思想だとも言えます。

罪と罰が仲良しな理由

DAでドスが言った言葉のうち、最も興味深いものは「罪と罰は仲良しなんだ」という台詞だったと言ってもいいかもしれません。
なぜこの二つは仲良しなのか、ドスの異能はなぜ分離しないのか。
この点についてフォロワー様が素晴らしい見解を与えて下さりました。
「堕天使と天使は本来同一で仲良くできるから」
その通りだなと感じます。

(※ここから先の考察は多分に妄想を含んでいます。)

ドスが異能を分離させたとき、異能側が「罰」で人間側が「罪」でした。
「罰」は天使であり、「罪」は堕天使とも考えられます。
「罰」は神の代わりに人を裁くことであり、人を裁く力を持つのはやはり天使です。堕天使には人を裁けません。

ドスの異能が分離しても人間側を攻撃しなかったのは、他の異能力者に対して「罰」が機能しないのと同じで理由で、分離した「罰」である天使は堕天使を裁けないから、というのが一つの理由として考えられます。
しかしもう一つ、ドス特有の理由として異能側と人間側がもともと同じ存在だから、というのも考えられます。

ドスは堕天前のルシファーと堕天後のルシファーを抱え込んでいるのではないかと先ほど書きましたが、そうなると異能側が堕天前のルシファー(天使)で人間側が堕天後のルシファー(堕天使)だという解釈ができます。
しかしこうなると、器であるはずの人間側のドスは本当に人間なのか、という疑問が生まれます。
ルシファーは楽園追放の際に自分の姿を蛇に変えたように、変幻自在の存在です。そのため、ドスは実は人間ではなく生身のルシファーなのではないか、という説が浮上します。

人間側の器さえも堕天使として天使固有の能力を持てるからこそ、一人一異能という制約を超越して二つの異能を持っているのかもしれません。
それに、人に罪を与えるのはルシファーの本質です。

「罪」が相手の脳を改変する能力なのだとしたら、神が創った美しい脳を改変して汚そうとするドスのサディスティックな一面が垣間見えます。そこからドストエフスキー本人が影響を受けたと言われるサド伯爵の面影すらも感じ取れるような気がしています。

ドスがルシファーだったのならば、澁澤の集めたコレクションをちょちょいのちょいでサタンの象徴である赤い竜に仕立て上げたのも納得ですよね。
すべては彼の手下どもですし、これくらいの芸当、ルシファーならできて当然です。

ルシファーの贖罪

『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフは「新しいエルサレム」を信じるのか、という問いに対して「信じてますよ」と答えました。
この言葉から想像するに、ドスもやはり「新しいエルサレム」の到来を待ち望んでいるのではないかという仮説が立てられます。
新しいエルサレム、すなわち最後の審判を経て神のもとに還り、罪や死のない人類の楽園を実現することです。それは、原罪によって始まった苦しみの時代を終わりにすることでもあります。

もし仮にドスがルシファーであり、彼自身が新しいエルサレムの実現のためにこの地上から悪を無くしたいと思っているのなら、自分が始めた罪の物語を自分の手で終わりにしたい、ということになります。
それはまさしくルシファー自身の贖罪ではないでしょうか。
この地上に原罪をもたらし、堕天使たちを引き連れて人に悪の誘惑をし始めたのは他でもないルシファー本人です。
この地に連れてきてしまった堕天使を自分の手で滅ぼし、天に罪を返還することで自分が生み出した悪夢を終わらせる、そのために堕天使である異能者を滅ぼそうとしているのかもしれません。
そうなると文ストの戦いは、楽園を再び取り戻そうとするルシファーと、それを阻止しようとするその他の堕天使(=異能者)たちの戦いである、という見方もできるようになります。

以上、かなり妄想が入り混じっているので、ドスくんがルシファーなのかどうか、信じるか信じないかは貴方次第、ということにして締めくくりたいと思います。
何度も言いますが、様々な観点での整合性の確認はまだ取れていないので、とりあえず仮置きの仮設としてお披露目しました。

最後にひとこと感想、
やっぱDAはすげえや。でした!
またドスくんについてなにかアップデートあったら書きます〜。

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