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BEAST太宰について(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※Twitterのお題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題:
BEASTを一度しか読んでおらず、設定把握出来てないところがあるかも知れませんが、気になっているので投書失礼します。
BEAST太宰と太宰が別人のように感じます。
敦に「自分を憐れむな」と言っていた太宰ですが、
BEAST太宰は世を儚んで(?)さくっと自殺してしまった。
BEAST太宰はなぜ自殺してしまったのか。
どうして芥川や敦に任せるのではなく、自分でなんとかしようとしたかったのか。
二人をなんとかして裏で操って(本編太宰みたいに笑)、他の敵に立ち向かうことも出来たんじゃないかと
BEASTの太宰は自分を哀れんでいたのではないかと
思うのですが、ものあしさんはどう思われますか?


お題を頂きありがとうございました!
BEAST太宰って…理解に苦しみますよね…
本編太宰とは別人と思わないと、思い悩んで闇から抜け出せなくなるの、すごくわかります。

本編では「自分を憐れむな」と言っているのに、BEASTでは自分を憐れんでいるっていうの、本当にその通りだなと思います。
本当は加害者なのにまるで被害者のふりをしているし、人の気持ちをまったく考えることなく、自分のことしか考えてない。
肝心の織田に対してもそれは変わらないですよね。
織田は自分一人の夢のために他の人が犠牲になることを望むような人じゃないし、あのような干渉のされ方は迷惑以外のなんでもないので、結局のところ織田の気持ちもBEAST太宰はまったく想像できていなかった気がしています。

ぼろくそ言ってしまい失礼しました…
BEASTは本編とは対になっている裏世界だと思いますので、一人一人のキャラクター性も「感情」と「理性」が逆転しているんだと思っています。
本編ではしっかり理性が感情を抑え込んでいますが、BEAST世界は理性という枷がなく、感情だけが暴走しているような感じかなと。
なので、本編太宰とBEAST太宰は基本的には別人なんだと、私は解釈しています!

その流れで太宰の自殺の理由を考えてみると、BEAST太宰にとっての一番の希望は死ぬことだったんじゃないかなと思います。
55minの小説内では、太宰の魂が死を求めているという表現がありましたが、その魂に歯止めをかける理性を失ったBEAST世界では、死を求める魂が暴走していたとも考えられます。
そして、その唯一無二のとっておきの死、そこに太宰は彼なりの理想を詰め込んだ。それが親友のための死だったのではないか。
自分が現実世界でそれによって救われたため、「親友のための死」というのは、太宰の中で一番崇高で偉大なもの、最上級の死、という位置づけに祭り上げられていたとも想像できます。
そうなると、BEAST世界は太宰が理想的な死を遂げるために紡いだ壮大な戯曲だったという解釈ができます。

もう一つの見方として、以前別の考察(映画版のネタバレ含む)で書いたことですが、太宰はBEAST世界で「あり得たはずのもう一つの可能性」を追求し続けたという考え方もできます。
そこには自分のための「もう一つの可能性」というのも含まれていて、BEAST太宰は現実世界で選ばなかった「自死」という救済の形を経験したかったのではないか。
確かに本の3人ルールというのは自殺を後押ししましたが、それ以上に太宰はただ単に、死による救済を経験したかったんだと思っています。
そしてそれは織田の為という名目になっていますが、太宰にとっては決して織田>自分ではなく、織田の夢も自分のための救済も同じくらい重要だったような気がします。
逆に言うと、織田による救済を永遠に得ることができないBEAST太宰は、一生苦しみから抜け出せないので、自殺という形でしか自分を救済することができなかったということでもあると思っています。
織田のいない人生はそれだけ苦しく、早くそこから解放されたかったのではないでしょうか。

こんな感じで2通りの解釈を書いてみましたが、どう考えるかは最終的には受け手次第だと思いますので、参考程度にして頂けると嬉しいです。

以下おまけです。
もし映画版BEASTをご覧になっていない場合は、ここから先は飛ばしてください!

個人的に、映画版BEASTで一番好きなシーンは安吾と織田が車の中で話すシーンでした。
そしてそこで安吾がヨハネ伝の引用を読み上げる。
「一粒の麦地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし。」
これ、遠まわしに「君は死んでいるべき存在であり、死んでいた方が世界のためなんだよ」っていうことを揶揄しているようで、安吾ナイス!と思ってしまいました。
安吾にこの言葉を言わせたことで、「BEAST世界はあるべきではない、間違った世界だ」という意味付けが加えられたような気がしています。

しかし、そもそもなぜこの二人は友達なんだ?とか、織田はなぜルパンに行かなかったの?どこで飲んでたの?と追求したくなるところは沢山あります。
実際は朝霧先生の中にある程度のシナリオができているのかもしれませんが、あまり深く追求すると思考の迷宮に陥るので、設定部分はあくまでも悲劇を描くための都合の良い舞台装置に過ぎない、と見切っておくのが精神衛生上、良いような気がしてます。
凄い余談でした。

お題頂きありがとうございました!!

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