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BEASTという物語の本質について考えてみた

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※映画BEASTのネタバレを含みます。
※特典小説Side-A, Bもわずかながらネタバレを含みます。

BEASTという物語は、表向きは敦と芥川の立場が逆転し、織田が小説を書ける世界を太宰が用意する物語になっている。
しかしもっと深く掘ってみると、すべての元凶ともいえる一つの動機が浮かび上がってくる。震源地にいるのは、言うまでもなく太宰のようだ。

BEAST太宰の犯行動機から見える物語の本質

太宰がそもそもBEAST世界で試みようとしていたこと、いわば彼の犯行動機について、まずは考えてみようと思う。
そもそものきっかけは織田の死についての記憶を彼が無限回見たことから始まる。
その結果、BEAST太宰はこう考えたのではないか。
「織田の死を招いたのは自分だ」と。

ミミック事件のとき、もし自分がもっと早く森の意図に気づいていれば織田が死ぬことはなかった。
そもそも自分が織田をポートマフィアなんかに勧誘しなければ、織田が死ぬことはなかった。
ポートマフィアに入っていなければ、仕事の傍ら、小説を書く毎日を続けていられたはずなのだ。
織田の死の最初のきっかけを作ったのは自分だ。
織田から夢を奪ったのは自分だ。
だから、そこまで時間を巻き戻す。
もしあの時違う選択をしていたら。
その夢想から生まれた世界がBEAST。
太宰の後悔で始まる物語。
そこにあるのは、織田に与えられたはずの「もう一つの未来」への未練。

しかしこれだけでは終わらない。
太宰はおそらくさらに考えた。
自分が転機をもたらした相手は織田だけではない。
中也を人間にしたのは自分だ。
芥川を夜の世界に引きずり込んだのも自分だ。
敦を探偵社に引き入れたのも自分だ。
もしあの時、違う選択肢を彼らに提供していたら。
彼らの人生はまったく違っていただろう。
自分の選択によって誰かの人生の方向性を決定づけてしまったという自責の念。
人の人生をまるっきり変えるほどの力がある故の自省。
もしあの時違う選択をしていたら、という「ありえた可能性に対する未練」がこの物語を支配している。

だからこそ、現実世界と反対の選択肢を提供することで、その未練を断ち切りたい。
現実世界で自分が生み出した業を清算したい。
BEASTで太宰が取った行動は、ある種の贖罪だったのかもしれない。
だから太宰によって人生に転機をもたらされた人たちはみんな出来事が反転している。

こうして太宰は未練を追う獣と化した。
その獣から連鎖的に生み出される数々の獣。
復讐心という獣を追う芥川。
恐怖心という獣を追う敦。
怒りという獣を追う中也。

BEASTは後悔の物語であると同時に、その題名のとおり獣の物語でもある。
そこには後悔を抱えたまま、獣を追う人物が溢れている。

太宰自身の「もう一つの可能性」

織田に出会えないBEAST世界では、太宰に救済は訪れない。
異能で記憶を読み取ったからといって、その救済の経験を自分のものにできるわけではないと思う。
だとしたら、太宰は自分で自分を救済するしかない。
太宰は自分を救う方法を考えた。
それが、あり得たはずのもう一つの自分の救済のかたち。
自死。
現実世界では選ばなかったもの。

中也のための「もう一つの可能性」

映画版BEASTでは中也も被害者として巻き込まれている。
太宰が中也に「人生の転機」をもたらしたのはストブリ。
太宰が選んだ暗殺標的によって、中也は獣としてではなく人間としての道を歩み始めた。
しかしそれは果たして本当に中也のためになったのか?
中也は兄と旅に出た方が幸せだったのではないか?
義務を全うすることが必ずしも幸せとは限らない。
だからこそ、中也にももう一つの選択肢を与える。
人間ではなく、獣となり、孤独な彗星となる人生を。
兄とともに生きるというもう一つの救済を。

BEAST世界のストブリ

中也のために用意されたもう一つの可能性を考えるために、BEAST世界でのストブリがどのようなものだったかを想像しておきたい。
ここからは予測の話になってだいぶ妄想に近いので、どうかご容赦を。

BEAST世界では、汚濁のことをアラハバキと呼んでいるので、ストブリで中也は汚濁を使わなかった模様。
さらにSide-AとBの描写の違いに「太宰が偽札を持っていたかどうか」という点があり、旗会が生きていることが匂わされている。
そのためストブリが「なかった」とも考えられるけれど、個人的にはストブリはあったけど「暗殺標的が違った」んじゃないかなと思っている。

BEAST太宰は意図的に暗殺標的を違う人に変えた。
ストブリの暗殺標的が違ったらどうなるか。
まず、旗会は殺されていない。
そして刑事さんも殺されていない。
だから中也はNの研究施設には行かない。
Nも「弟の仇」という名目がないので、戦闘中に異能金属を発射しない。

そうするとどうなるか。
ヴェルレエヌとポートマフィアは確かに郊外の林で戦闘になった。
追い込まれたヴェルレエヌは門を開いた。
しかしその後、アダムのアンドロイドジョークの一刺しでヴェルレエヌは眠る。
Nはそこにいない。だからヴェルレエヌは完全顕現体である魔獣ギーヴルにはならない。
魔獣ギーヴルが出現しなければ、中也も荒覇吐を使うことはない。
眠ったままのヴェルレエヌを予定通り確保して戦闘は終了する。
ヴェルレエヌは特異点が消失することのないまま、おそらくムルソーのような国際的な監獄に入れられるだろう。
こうして、ヴェルレエヌが生き、旗会が生き、中也が汚濁を使わないストブリが出来上がる。
BEAST世界のストブリは、そんなストブリだったのかもしれない。

「良いことも悪いことも半分ずつ」と賢治は言った。
芥川に探偵社という日向が与えられたように。
敦に森という温かな父ができたように。
中也にも良い半分が待っているはず。
失ったはずの旗会という仲間と、大切に思ってくれる兄が。
怒りを追う孤独な獣と化した中也に、寄り添ってくれる彗星。
太宰からの置き土産はきっとちゃんと全員にあるんだと思う。

抑圧からの解放という救済

「生き方の正解を知りたくて、誰もが闘ってる」と太宰は9巻で言った。
生き方の正解を誰よりも求めているのは太宰自身だと思う。黒の時代以前では生きる意味の正解を求めて、それ以降では織田の遺志に沿う正解を求めて。

太宰にとっては善も悪も大差ない。
彼にとってはどちらにせよ全て無意味なのだ。
そしてもう一つの側面として、おそらく彼にとっては正解に勝る価値基準はないからでもある。
悪だろうが、それが生き方の正解なのだとしたら悪でいいし、善が正解ならどこまでも善になれる。

太宰が縛られている「正解」という枷を取り除いたのがBEAST。正解に囚われることを捨てて、好き勝手に、心の赴くままに生きている世界。そういう捉え方もできる。

そして、正解を捨てることにした自分と同じように、中也にも義務を捨てさせる。
正解も義務もその人を縛り付ける縛鎖だ。
義務から解放されて、心の赴くままに怒り暴れることのできる自由。
抑圧された状態からの解放。その道連れに。
そういう救済のかたちだってあっていい。

なぜ世界のために頑張らなければならないのか?
なぜ組織のために頑張らなければならないのか?
自分の心に従って独りよがりな生き方をするのは悪なのか?
別にいいじゃないか、暴走したって。
無限個のうちのひとつでさえも、好き勝手生きられないなんてかわいそうだ。
現実世界と他の沢山の可能世界で抑圧に耐えながら、責任を果たしているんだから、ひとつの世界くらいでは休ませてあげよう。自由にしてあげよう。
BEASTは、そういう優しさの世界でもあるような気がしている。

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