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立原兄弟の持つ異能について(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:
はじめまして。ものあし様の考察、いつも楽しく拝見させていただいています。本日は本編の描写について個人的に少し気になる事があったので相談させていただきます。
 以前投稿された「異能の継承と金属について」を読ませていただきました。大変すばらしかったです。異能継承に関する発想が私の中でもかなり深まった気がしました。出題者様とものあし様、お二方の発想力に感服しました。
 しかし、個人的に立原兄弟の継承についてどこか納得しきれず、二人の異能発動シーンを思い返すと、アニメ版にて異能が発動する際のエフェクトが微妙に違うことに気づきました。兄→本から与謝野先生の異能エフェクトに出てきた蝶のようなものが出現、頭に止まったら金属になった。弟→操作対象となる金属の表面が白く光る。こんな感じだったような気がします(間違っていたら申し訳ありません)。同じ異能なのにエフェクトが違うのは不思議だなと感じました。これについてどのように考えているのかをお聞きしたいです。以下、私のなけなしの知識で思いついた理由です。

①実はそもそも二人の異能は全く別のもの。継承もされていない。
 多分これが一番単純なパターンかと。その場合お兄さんの異能は何だったのかという疑問が残るし、あまりにもストレートすぎるためメタ的な意味でも違うのかなぁと。再登場や過去編で明かされる可能性もあり得るかもしれませんが、描写や立場からそうなる可能性は低いのではないかと感じました。

②内容は同じだが継承はされていない。
 大雑把にいえば夜叉白雪と金色夜叉みたいな関係性ではという考えです。漫画版ではお兄さんも操作をするような動きがあるのでこの可能性もあるのかなと。その場合も上記の疑問が払拭できないのが難点ですが。

③同じ異能で継承もされている
 考察を前提とした考えです。2人のエフェクトの違いは両者の使用方法の差なのではないかという考えです。この世界の異能は1人につき1つというルールがあります。ですが蘭堂の異能は自身が展開した亜空間で死人を異能生命体として使役するという1つの異能に複数の要素が混ざっているというものでした。立原兄弟のものもじつはこういったタイプだったのではと仮定し、弟は金属操作、兄はそれ以外の要素を主に使っているという考えです。割とありそうかな……?

 質問及び個人的な意見は以上です。長文失礼しました。


お題を頂きありがとうございました!そうだ!それですね!!本当に継承されているのか、という点から本来はきちんと検証するべきでした。鋭い考察でとても興味深く読ませて頂きました!

■まずは公式情報から

この件に関しては実は公式からさりげなく答えが出ておりまして、一番最初に事実として伝えておこうと思います。35先生がインタビューで語ってくれた内容です。

異能がまったく一緒なことから、お兄さんも合わせてこの漫画における「立原道造」というキャラクターがやっと出てきたように感じます。(春河35先生)

季刊エス第67号

立原の真相について明かされた後のインタビューで、立原と立原兄のデザインについて語ってくれた35先生の言葉から抜粋しました。この言葉から読み取れるように、二人の異能はまったく一緒という設定になっているようです。(少なくとも当時は)
また、前回お話しした「同じモデルでなければならない」という制約もこのインタビューの内容から推察したものでした。

ということでおそらく二人の異能は同じものだろうという前提に立って、考察をしていきたいと思います。

■「金属を生成する異能」と「金属を操る異能」

実は私も最初、お題主様と同じようにこの二人の異能は似ているようでいて本当は違う異能なのではないかと疑っていました。
その根拠はお題主様が書いて下さったとおりで、立原の異能は「金属を操っている」のに対し、立原兄の異能は「金属を生成している」ように見えたからです。

今までの描写の中で、立原が金属を生成したことはないと思いますし、その反対に立原兄は大きな金属を動かしたことがないように思います。立原兄が異能を使用した場面としてはっきりと描かれているのは、与謝野さんのために本から金属の蝶を作り出した場面だけですかね。

そうなると、兄弟らしくちょっとだけ異なる異能をそれぞれ持っていた、ということでも十分に説明がつくように感じます。
しかし実際はふたりとも立原道造であり、異能も同じものなので、「なぜ出力される異能の効果が違うのか?」という点で考察が必要になってきそうだなと思っています。

■異能が少しだけ異なっているように見える理由

考えられる可能性は3つあるかなと思っています。

①異能継承時のトラブル
最も単純なのは、異能継承時になにか不具合があって異能が変質した、あるいは一部の機能が損なわれた、という可能性でしょうか。

②所有者によって出力できる効果が異なる
もうひとつは、お題主様もおっしゃっていた使用方法の差に近いものですが、継承された同じ異能であっても所有者によって使える能力がちょっとだけ違う、というのもあり得そうですよね。
「異能力の出力限界は人間の精神によって規定される」とストブリに書かれてますので、立原と立原兄の精神の違いによって、出力される異能が少し異なるのだという説明はできそうです。

③立原が「金属を生成する力」に気づいていない
最後は、立原が自分の持つ異能のその本当の力にまだ気づいていない、という可能性です。あるいは「金属を生成する力」というのは秘匿されるべき力であり、立原にその情報が伝えられていないとか、立原は知っているけど力を隠しているとか、そういうのも考えられますかね。
だとすれば、立原が今後なにかの拍子に「金属を生成する力」に気づいて新たにそれを武器にしていくとか、作中の秘密を暴いていく役割を担っていくとか、そういう将来性も期待できそうです。

■なぜ本から金属が生成されるのか

本から金属が生まれたとき、とても不思議だなあと思ったのは私だけでしょうか?はじめは金属のしおりでも挟まっていたのかな?なんて疑いも持ちましたがそうではないようです。
立原兄は無から金属を生成したというよりは、詩集から金属を生成したように見えます。詩集に書かれた作品を、文字を、金属に変性させた。形而上にあるものを、形而下に具現化させた。国木田さんの手帳と少し似ていますね。
文スト世界では、異能と金属には親和性がありそうだと前回の異能の継承と金属について(お題箱から)の考察で書きましたが、立原兄の異能のことを考えると、文スト世界では「文字と金属に互換性がある」という可能性もあるのかも?立原兄はそのことを機密文書などから読み取っていたとも想像できますかね。

このあたりの実際の仕組みはよくわかりませんが、史実の立原道造が書いた作品の中にひとつ、少し繋がりがあるかもしれないなあと思う物語がありましたので、紹介しておきます。

昨夜は いちばんかすかな豆ランプをともして その下で繪のついた本をひらいて居ました 一匹の蜂が花の蕋ふかく入つたところその花がいつの間にか消えてしまつたので その愚かな蜂は不思議だと思ひながらも自分まで一しよに消えていつたと その頁には書いてありました

 星や月のあかるい夜道で一册の本を拾つた人が 家に歸るまでに中に書かれたことを落してしまひました それであくる朝早く行つてみたら 道ばたの草のなかでは女王やポリチネルや行列が牝羊だの孔雀だのと一しよになつてきれいな空氣のなかでさはいでをりました

 一生かかつて語りあつても不思議な夜のたくらんだ手品の種はわかりませんでした

『夜に就て』 立原道造

花が突然消えて不思議だなと思いながらも自分も一緒に消えていく蜂。本の中に存在していたはずの物語の要素が、ぽろぽろと道端に落ちてしまった夜。立原が生み出した蝶の髪飾りもこれらの手品と同じように、一生かかって語り合っても、その不思議さの真相には到達できそうにありませんね。それほどに奇妙で幻想的なシーンだったなと思います。

■立原道造の肖像

立原道造という詩人の優しさや柔らかさが感じ取れる伝記が青空文庫にありますので、こちらも併せてご紹介しておきます。友人として近い距離で接してきた室生犀星の目に映る爽やかな立原と、彼を取り巻く人情味あふれる人間模様から、生きた立原道造そのままの温もりまでもが感じ取れるような、そんな魅力的な内容でした。

史実の立原道造の人物像がより色濃く投影されているのはやっぱり立原兄だなと感じます。立原兄がもともとの立原道造で、彼の持っていた魂たる異能力が立原弟に「かたみ」として引き継がれていった。史実に照らし合わせてみても、その説が一番しっくりくるかなと思っています。

■「真冬のかたみに」

最後に、立原の異能名になっている「真冬のかたみに」について、少しだけお話させてください。

真冬のかたみに‥‥
Heinrich Vogeler gewidmet

追ひもせずに 追はれもせずに 枯木のかげに
立つて 見つめてゐる まつ白い雲の
おもてに ながされた 私の影を――
(かなしく 青い形は 見えて来る)

私はきいてゐる さう! たしかに
私は きいてゐる その影の うたつてゐるのを……
それは涙ぐんだ鼻声に かへらない
昔の過ぎた夏花のしらべを うたふ

《あれは頬白 あれは鶸 
あれはもみの樹 あれは私……
私は鶸 私はもみの樹……》 こたへもなしに
私と影とは 眺めあふ 
いつかもそれはさうだつたやうに

影は きいてゐる 私の心に うたふのを
ひとすぢの 古い小川のさやぎのやうに
溢れる泪の うたふのを……雪のおもてに――

『優しい歌』 立原道造

雲のおもてにあらわれる永遠の影と、枯れ木のもとで影と呼応する私という実在。影は私の心を映し出したもうひとりの形のない私。ふたりは眺め合い、そしていずれ悲しみのうちに別離する。影だけが永遠の空を進んでいく。
冬が必ず訪れる刹那の実在とは対照的に、影の持つ青い果てしなさが個人的にはとても印象に残りました。
「私」は詩人や作家としての生身の自分、「影」は作家の心を映し出したもう一人の自分としての作品、そんな風に捉えてみることもできるのではないでしょうか。
たとえ本人がこの世を去ったとしても、残した影はいつだって空高くでうたいつづける。地上の人間たちを季節を超えてうたごえは照らしてくれる。
作家の作品はひとときの命のかたみとして後世に受け継がれていくものであり、おそらくそうして異能力もまた継承されていくのかもしれないなと感じました。
(詩は多様に解釈できますので、これらはあくまでもひとつの見方です)

立原兄弟について、前回すっかり盲点となってしまっていた部分を考察することができて良かったです。
お題主様、本当にありがとうございました!


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