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敦くんと斗南司法次官のつながり(お題箱から)

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。
※お題箱に頂いたお題への返信です。

頂いたお題はこちら:

『文豪ストレイドッグス』の登場人物の中には作中に登場する文豪の作品の登場人物が名前の由来となっている人物(例、『痴人の愛』の登場人物に由来する谷崎ナオミ)や文豪の周辺人物が名前の由来となっている人物(国木田独歩の最初の妻に由来する佐々城信子)が何人か登場していますが、前者は谷崎が所属する探偵社の関係者で妹、後者は国木田と因縁があると言ったようにほぼ全ての登場人物にわたり、かなり深い繋がりがあることが分かります。

しかし、斗南端蔵に関しては福沢と因縁深い相手として描かれますが、名前の由来となっているのは中島敦の小説『斗南先生』の登場人物及び、そのモデルとなった中島端(幼名、端蔵。号、斗南)と他の文豪の作品の登場人物が名前の由来となっている人物や文豪の周辺人物が名前の由来となっている人物とは少々違う立ち位置にあるように私は感じています(勿論、『文豪ストレイドッグス』作中の中島敦との間に接点が全くないという訳ではありませんが、武装探偵社の新人社員と敦が顔を覚えている司法省の関係者という程度のもので、会話をした時間も僅かです)。

現実の福沢諭吉の関係者ではなく、中島敦の関係者を名前の由来にしたことに、実は何らかの意図(今後の展開に繋がる伏線?)があるのではないかとふと頭を過ったのですが、この点について何か現時点でお考えになっていることはありますか?

……アニメを追いかけているので本誌や単行本でこの点で進展がありましたら、申し訳ございません。

(追記頂いた内容)
ものあし様、更新の度に鋭い考察の数々、楽しく、そして興味深く読ませて頂いております。
以前、斗南端蔵に関するお題を投稿させて頂いたものです。

その後、アニメを視聴し直したことで情報が増え、考察とも呼べない妄想も出て参りましたので、「【お願い】お題の内容について」で示されたお題箱三箇条を踏まえ、妄想と呼べない考察も交えつつ追加のお題を投下させて頂こうと思います。既に考察をはじめていらっしゃいましたら、申し訳ございません。

まず、知識不足を晒すようで恥ずかしいのですが、四十三話「悲劇なる日曜日」を再度視聴したところ、福沢さんに殺された斗南端蔵の父親が「斗南撫山」であることを発見しました。「文ストアニメ4期6話(43話) 感想」でこの点について触れられていたので、勿論、ものあし様はご存知のことだと思いますが、この点、考察と呼べない妄想にも関わってくるため再度揚げておきたいと思います。

余談ですが、『斗南先生』を読んでいない、現実世界の中島敦および、その周辺についても詳しくないので、「中島敦の斗南先生でも、叔父が山に籠り、それを主人公が迎えに行くくだりがあったね。山好きはそこからのオマージュかな」という指摘はしっかりと文豪の周辺も調べていらっしゃるものあし様だからこその感想だとひしひしと感じました。……大学時代に中島敦の研究で博士論文に挑んでいらっしゃる院生の先輩がいたので、もっと話を聞いておけば良かったなと後悔しております。

脇道に逸れ過ぎたので、話を戻します。

確認のために載せますが、斗南撫山の元となったと思われる中島撫山は、中島敦の祖父にあたる方で中島端はその次男(戸籍上は長男)にあたります。
これを知り、やはり作中の中島敦と斗南端蔵の間にはやはり隠されたナニカがあるのではないかという疑惑が強まりました。……まあ、『斗南先生』から単に持ってきただけという可能性がないとも言い切れないところではありますが、何の意図もないのに配置するような真似を朝霧カフカ先生がするとは思えないんですよね。
で、結局何が言いたいかというと、「天人五衰編、いっきにまとめて考察」の「五衰事件が解決しても、解消されない問題」の②で示されていた斗南端蔵との因縁という問題、これを打開する鍵がここにあるんじゃないかと考えているということです。

不楽本座事件で敦くんはゴーゴリに捕まってあの場に辿り着けませんでした。主人公抜きで行われたあの反転の場面、私は何か意図的なものがあるのではないかと感じました。意図的にあそこでゴーゴリが足止めしたように見えたというのもあるのかもしれません。

敦くんは孤児で、親がどういう人なのかとかその辺りは明かされていなかった気がします。現実世界の中島敦の家族をモチーフとした人物が登場し、その解消のために今後物語が進む場合、敦くんの存在が因縁の解消に役立つと共に敦くん近辺の謎も解決する、そういったほとんど根拠もない都合の良過ぎる妄想が浮かんできた次第です。

ものあし様、この近辺に関することについてお考えになっていることがありましたら、お答え頂けたら幸いです。


■はじめに

まず何よりこれほどまで詳細かつご丁寧にお題の内容を記載頂きましたこと深く御礼申し上げます。私の身勝手で我儘なお願いにより、お題主様には多大なるご負担をおかけしてしまったのではないかなと反省しています。

さて、頂いたお題の内容が大変興味深く、着眼点が鋭いなあと感嘆しました。福沢諭吉の因縁に絡む人間がなぜ史実の中島敦の親族なのか、なにか裏があるのではないか、というのは言われてみれば本当にその通りで、重要な伏線が隠されている可能性は大いにありそうですね。さらに敦くんがゴーゴリによって意図的にあの場に足止めされていたのもやはり伏線なのではないか、とお聞きしハッとしました。
人の死角を巧みに突いてくるような伏線の入れ方であり、カフカ先生らしい伏線な感じがします。私ひとりでは絶対に気づけなかったことですので、追記頂けて本当に良かったです。

■敦が孤児院に入った経緯

込み入った話をする前に一番メインのことを話してしまおうと思います。

敦くんが孤児院に入れられた理由やなぜ両親が敦を捨てたのかは現時点ではまったくわかりませんが、福沢の継戦論者暗殺の標的の中に敦の親族関連の人がいた可能性はゼロではないかなと思っています。
現時点で判明している敦くんの生い立ちはこんな感じです。

[18年前] 敦くん誕生(敦0歳)
[??年前] 両親にゴミ袋に入れられて捨てられる
[14年前] 斗南撫山が暗殺される(敦4歳)
[7年前]  院長による虐待、足に釘など(敦11歳)
[6年前]  澁澤との邂逅(敦12歳)

14年~15年前は大戦末期とされていますので、敦くんの幼少期、3歳~4歳ころは福沢が継戦論者暗殺を行っていた時期と重なっています。
万が一、福沢が暗殺した人の中に本来であれば敦の養育者となるべき人がいて、福沢の暗殺こそが敦を孤児院に押し込んだ元凶なのだとしたら?そういう可能性を考えてみると、敦は果たして福沢さんについてどう思うのだろうかと色々妄想が捗りますね。

福沢の暗殺は「暗殺指示書」に従って行われていると思われます。暗殺対象は誰かの手によって決められていたということで、その標的を選出した人間がどのような価値基準に基づいてどのような目的をもって選んでいたのかは気になりますね。
文スト外伝で明かされていることとして、司法省と異能特務課が敵対しているという事実があります。司法省の権威を葬ったその裏に、特務課の私情や利得の計算などが含まれていたりしなかっただろうか。
史実の中島家の人間が司法省絡みで出てきているということは、もしかしたら敦くんの両親もその界隈の人間だったのではないか、と考えてみるのも面白いかなと思います。

■史実の中島敦の生い立ち

さてここからはせっかくなので、史実のお話をしたいと思います。今までじっくり考察できなかったので今回の記事で色々と情報を整理してみます。

中島敦の父は中島田人であり、中学教師として漢文を教えていました。
中島敦の祖父にあたる中島撫山は私塾「幸魂教舎」の創始者であり、中島敦の父の「先生」的位置づけだったようです。中島撫山は敦が父方の家に引き取られる2カ月前に他界しているので、直接の養育者となったことはないようですが、祖父が家に残した様々な資料などから中島敦は漢学などを学び取っていたとされています。
中島端(端蔵)は斗南先生のモデルであり、中島敦と親しい叔父でした。詳しくは後述します。

ここで中島敦の少年時代の年表を簡単にご紹介しておきます。

幼い頃の母との離別というライフイベントによって、中島敦には母という確固たる存在が欠如していただけでなく、その後の度重なる転居によって居場所が定まらなかったような生い立ちが感じ取れますね。
自分が生きていていい場所なんてどこにもないんだという圧倒的な疎外感が、中島敦の少年時代の歩みから恐ろしいほどに浮かび上がってくるように感じます。そしてそれらはやはり文ストの敦くんに全面的に引き継がれているものだとも思います。

本来「存在していてもいいんだよ」「ここにいてもいいんだよ」という生存に対する安心感はまずはじめに母から与えられるものですが、中島敦には何もかもを包み込んでくれる母のような存在がいなかったことで、生きていても大丈夫だという実感を持てなかったのではないでしょうか。
それは次第に生きていることそのものへの罪悪感、あるいは何か重大なものが欠けてしまっているような飢餓感に繋がっていったように思います。

母から無償の愛によって受け入れられなかったとしても、成長する過程で友人を作り学校という集団の中での居場所を見つけることで少しずつ変わっていく機会が通常ならばあったはずです。
しかし中島敦は幾度も転校を余儀なくされたために、集団の中での居場所づくりにも苦戦したことが伺えます。
そうして安心感や居場所というものからほど遠い幼少期を過ごした先で、中島敦がようやく得た"比較的長く滞在した居場所"というのは、京城府という異国でした。
日本領といえども、朝鮮人という多数の中に存在するほんの一握りの少数派としての日本人であり、孤立感や疎外感というのはどこまでも付きまとってくるものなのではないのかなと想像しています。

中島敦の私小説的な位置づけの作品に『狼疾記』があります。主人公は「絶対的な虚無感」を抱えながら、そこから自然発生する「自分はなぜ存在するのか?自分は何者なのか?」という止まらない「なぜ?」の問いかけから逃れられずに問答を繰り返すのですが、これらは中島敦自身の根底に流れる病でもありました。
中島敦イズムとも言える『狼疾記』という名の脳内世界は、文ストの世界観とも似通っているので、ここに少しだけ内容を抜き出しておこうと思います。

地球が冷却するのや、人類が滅びるのは、まだしも我慢が出来た。ところが、そのあとでは太陽までも消えてしまうという。太陽も冷えて、消えて、真暗な空間をただぐるぐると誰にも見られずに黒い冷たい星どもが廻っているだけになってしまう。それを考えると彼は堪らなかった。それでは自分たちは何のために生きているんだ。自分は死んでも地球や宇宙はこのままに続くものとしてこそ安心して、人間の一人として死んで行ける。それが、今、先生の言うようでは、自分たちの生れて来たことも、人間というものも、宇宙というものも、何の意味もないではないか。本当に、何のために自分は生れて来たんだ?

『狼疾記』中島敦

じいんと静まり返った世界の真中に、たった一人でいるような気がして来る。その時、彼の踏んでいる大地は、いつもの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった・冷え切った円い遊星の表面なのだ。病弱な・ひねこびた・神経衰弱の・十一歳の少年は、「みんな亡びる、みんな冷える、みんな無意味だ」と考えながら、真実、恐ろしさに冷汗の出る思いで、しばらく其処にたちどまってしまう。

『狼疾記』中島敦

彼は、他人から教えられたり強いられたりしたのでない・自分自身の・心から納得の行く・「実在に対する評価」がもちたかったのだ。曲りくねった論理を辿って見て、はて、俺の存在は幸福なのだぞ、と、自分を説得して見ねばならぬ幸福などでは仕方がなかったのだ。

『狼疾記』中島敦

全然解決の見込のない問題を頭から相手にしないという一般の習慣はすこぶる都合の良いものだ。この習慣の恩恵に浴している人たちは仕合せである。全くの所、多くの人はこんな馬鹿げた不安や疑惑を感じはしない。それならばこうしたことを常に感ずるような人間は不具なのかも知れぬ。跛者が跛足を隠すように俺もまたこの精神的異常を隠すべきだろうか? ところで、一体、その正常とか異常とか真実とか虚偽とかいう奴は、何だ? 畢竟、統計上の問題に過ぎんじゃないか。いや、そんな事はどうでもいい。何より大事なことは、俺の性情にとって、幾ら他人に嗤らわれようと、こうした一種の形而上学的といっていいような不安が他のあらゆる問題に先行するという事実だ。こればかりは、どうにも仕方がない。この点について釈然としない限り、俺にとって、あらゆる人間界の現象は制限付きの意味しかもたないのだから。

『狼疾記』中島敦

根本的な何かが欠如してしまい、それを埋め合わせるために「自分とは何か」を執拗に追い求める運命に晒された中島敦。絶対的な虚無感に陥りながらも、狼疾感覚に突き動かされて「自分」を見つめ続けたことで中島敦の作品は生み出されていきました。
実体験と内省によって形作られていく彼の作品には自分自身を投影している登場人物がいて、その代表格が「三造」だとされています。

■斗南先生と中島敦の繋がり

『斗南先生』は、主人公の三造の目を通して、叔父である斗南先生との思い出や斗南先生が床に臥すまでのやりとりが描かれているのですが、この物語の三造とは中島敦自身のことであり、この作品は中島敦の実体験に基づいて書かれています。

中島敦の叔父にあたる中島端(斗南先生)は、中島家の中でも特に中島敦と親しく、二人は似た性質を持っていると言われながらも、中島敦は内心あまり叔父の性格を好いておらず、「自分の嫌いな部分が似ている」から反発を感じるのだと、斗南先生の中で内省して気付いています。

これらの非難は多く、自己に類似した精神の型に対する彼自身の反射的反撥から生れたもののようでもあった。とにかく、彼は、自分がそれに似ているといわれるこの伯父の精神的特徴の一つ一つに向って、一々意地の悪い批判の眼を向けようとしていた。それは確かに一種の自己嫌悪であった。高等学校時代の或る時期の彼の努力は、この伯父の精神と彼自身の精神とに共通するいくつかの厭うべき特質を克服することに注がれていた。

『斗南先生』中島敦

その内省の中で似ている部分として挙げられたのが、自身が抱いていた飢餓感であったり、山月記を彷彿とさせる臆病な自尊心、尊大な羞恥心へと繋がるような性質でした。

彼は自分自身の中に、何かしら「乏しさ」のあることを自ら感じていた。そして、それを甚だしく嫌って、すべて、豊かさの感じられる(鋭さなどはその場合、ない方が良かった)ものへ、強い希求を感じていた。この豊かさを求める三造の気持が、伯父自身の中に、――その人間の中に、その言動の一つ一つの中に見出される禿鷹のような「鋭い乏しさ」に出会って、烈しく反撥するのであろう。

『斗南先生』中島敦

伯父から享けたものとしては、まず、その非論理的な傾向、気まぐれ、現実に疎い理想主義的な気質などが挙げられると、三造は考えた。穿ったような見方をするようでいて、実は大変に甘いおひとよしである点なども、その一つであろう。三造も時に他人から記憶が良いと言われることがあるが、これも伯父から享けたものかも知れない。

『斗南先生』中島敦

質的にはすこぶる強烈であるが、時間的には甚だしく永続的でない。移り気なのである。
これには、彼の幼時からの書斎的俊敏が大いにあずかっている。彼が一生ついに何らのまとまった労作をも残し得なかったのはこの故である。決して彼が不遇なのでも何でもない。その自己の才能に対する無反省な過信はほとんど滑稽に近い。

『斗南先生』中島敦

叔父である斗南は、詩人の性質を元来持ちながらも詩人になりきれなかったと言われており、その叔父の姿が自分自身と重なり、さらには山月記で虎となってしまった李徴とも重なっていったのかもしれません。

■虎としての敦、蛇としての斗南

死期が近づいた叔父を抱えながら電車に揺られていた中島敦は、かつて叔父が詠んだある漢詩を思い出し、それを心の中で反芻します。

悪詩悪筆 自欺欺人 億千万劫 不免蛇身

口の中で、しばらくこれを繰返しながら、三造は自然に不快な寒けを感じてきた。何故か知らぬが、詩の全体の意味からはまるで遊離した「不免蛇身」という言葉だけが、三造を妙におびやかしたのである。彼自身も、この伯父のように、一生何ら為すなく、自嘲の中に終らねばならぬかも知れぬというような予感からではなかった。それはもっと会体のしれない、気味の悪い不快さであった。眼をつぶったまま揺られつづけている伯父を、暗い車燈の下に眺めながら、彼は「この世界で冗談にいったことも別の世界では決して冗談ではなくなるのだ」という気がした。(そのくせ、彼はふだん決して他の世界の存在など信じてはいないのだが)すると、伯父の詩の蛇身という言葉が、蛇身という文字がそのまま生きてきて、グニャグニャと身をくねらせて車室の空気の中をはいまわっているような気持さえしてくるのであった。

『斗南先生』中島敦

叔父の中に蛇を見た中島敦は後に虎へと変身する山月記を書くこととなりますが、その両者に共通するのは「性情に囚われて詩人になり損ねた悲劇」だといえます。

中島敦と斗南先生が似た者同士なのだとすれば、文ストの斗南司法次官とは「中島敦のネガ」であるとも考えられ、虎として表出した敦、蛇として表出した斗南、この二人は元来同一人物である、という見方もできるのではないかなと思います。
文ストに出てくる斗南と撫山の登山の写真を史実に照らし合わせたときに、本来斗南の位置には中島敦がいて、撫山の位置には斗南先生がいることになります。
失われたはずの叔父の肖像への憧憬を含んでいる写真という捉え方もできますので、斗南が実行しようとしている仇討ちとはすなわち、蛇として表出したもう一人の敦によって成し遂げられる叔父の仇討ちである、という考え方をしてみるのも面白いかもしれませんね。

斗南司法次官は父と二人で国家司法機関を築き上げた司法省の王であるとされていますが、司法省は文スト外伝の中でしつこいほどに「蛇」の象徴を与えられています。
例えば、外伝で登場した司法省の坂下局次長は"大蛇"であり、同時に"中央政権に巣くう蛇の一匹"と描写されていて、彼は"蛟"によって殺されました。(ネタバレすみません…)
司法省と蛇との繋がりから連想すれば、斗南もやはり同じく蛇なのであり、その描写の由来となっているのは、先ほど紹介した『斗南先生』での蛇のくだりだったりするのではないかなと考えています。

ということで、蛇と虎と仇討ち、それから司法省と特務課の敵対関係、なにやらこのあたりにはドロドロとした伏線が隠されているような気がしていまいますね。
とても興味深い着眼点を与えて下さったこと、そして中島敦について深く触れるきっかけを与えて下さったこと、お題主様には心より感謝申し上げます。

とっても長い考察になってしまい、すみません。
読んでくださった方、ありがとうございました。

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