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わざチョン(麻雀)

麻雀の話。
最近、ネットの公開対局でノーテンリーチがでたそうです。
これはルールに基づいて、チョンボの裁定だったそうです。
誰にでもおこりうる間違いですが、何万人かが視聴しているという
番組でやってしまったのは、なんだかかわいそうともいえます。

私、見ていないので伝聞口調ですみませんが。

この出来事の流れで、ツイッターの私のTLに

「罰則との見合いで、わざとチョンボをするのは
 ありやなしや?」
といったツイートが流れてきました。

これには、言いたいことがあるんです。

わざとチョンボ。略して「わざチョン」
ルール違反に課せられる罰則の重さの判断は
難しいものです。

「相応の対価を払うのだから、ルールの上で規定されないことは
やってもかまわない」

「打ち手としての評価、自分自身の体裁のために、するべきではない」

などの意見を見たのですが、私はこう考えます。

こと麻雀にかぎらず、当事者が正常な進行を心がけるのが、
ゲーム、競技に携わる者の基本的な考え方ではないかと。
そもそもチョンボは過失を前提としたルールです。

世の中にはいろいろな考え方の人がいますが、
ひとつのゲームに求心力を感じたプレイヤーは、
その中での社会性を第一義におもんばかるべきなのではないかと。

勝ったり負けたりを繰り返していく勝負事の中で、
一時の得を求めておこなう反社会的な行為には、
前向きな印象を持てないんです。
これは、みんながこうだから、お前もな、
という旧日本人的な考え方なのですかね?

もちろん世の中は変わっていくものなので、
わざとチョンボをする人を
ただ悪しざまに評価することもできません。

そういう人、プレイが増えたときにはルールの改正も否めないでしょうし
世の中にある多数の取り決めはそういった変遷を繰り返しているのだと思います。
多くは経済や世論などで決められているのかな。
もちろん、感情的に決めてよいものではないですよね。

おおげさな例え話になりますが罰則に紐づく法(ルール)が無かった時の殺人者はどういう扱いを受けたのでしょうか?
そして、なぜ現在では世界的な法で
殺人には罰が課せられているのでしょうか?

多くのゲームでもいえることに、麻雀も一人では遊べません。
また、ゲームの進行も性善説にもとづいていなければ
「ルールに定められてはいない」滞る状態も、ままあります。

「郷に入りても郷に従わず」なら、一緒に遊んでくれる人も
いなくなってしまうかもしれませんよね。

「安心して暮らせる世の中を」
「わざチョンのない麻雀を」
とか、なんとか。


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