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病気にまつわる不安と自己評価とのおつき合い


ちょっと深刻そうなお話になるかと思いますが、経験する人もいるかもしれないので、少し書きたいと思います。
病気にはいろんな不安がつきまとうものだと思っています。

 どういう病気なのかわからず、どうなるのかわからない不安
 進行したら、自分はどう生きていけばいいのかという不安

今考えてみると、こんな感じの不安と戦っていると思います。
しかし、Aさんも私も老人ではまだありませんので、これからのことを希望を秘めて考えることを要求されやすい状態であります。
不安がつきまとうときには不安を放出するのがいいと言います。不治の病の告知の過程といえばそうかと思うからです。しかし、不安を放出するというのは、ネガティブな思考を表出させることになるようにも思います。
そんな思いもあり、私は周りの人がネガティブなことを話しても、それを聞ける人間になりたいと思います。

不安とうまくつきあいたいと思います。ただ周りは不安を聞きたい人はいないし、自分がうまく話できなくなってしまいました。どう思われるかは置いといて、この場で一度書いてみたいと思います。それなら読みたくない人は読まないし選択できるかと思ったからです。以下の文は選択して読んでいただけると幸いです。


Aさんは今は病名がつきましたが、生まれたときは病名がなく10年以上病気の名前がつきませんでした。その間にAさんの解明がなされ論文が発表されその名前がつきました。
そんな状態でしたので、これからどうなるのか、今どういう状態なのか、病気に対する不安が大きくて、情報をとにかく集めようと必死で調べました。行った検査の細かな成分の解明など、今思えばあのころは不安からあそこまでの行動をしていたのだなと思っています。
病名が決まっても、回復せず悪くなるしかなく、年が行くにつれて進行が決まっているものでした。今もわずかな症状に敏感になるのもそんなところからだと思います。一度見逃してしまい、手術しましたが機能を失ってしまいました。見逃したことだけが原因ではありませんが、それも不安の要素になっているのだと思います。

どうやってもこれから進行していくのですが、それにともなって生活も変わっていきます。しかしその生活の変化につきあってくれる人と環境があるのかがこれからの不安です。そして、自分のネガティブなところをみると、自分の理想というものが持ちにくく、努力はしていますが、何についてもあきらめがちなところが根底にある生き方になっていると思います。

今、できることをして生きていますが、もちろんこれから今のようにはできなくなります。そうなればそうなったでまた取り組めばいいと思い、今は先のことを考えず生きています。不安は体の中にはありつつ、今したいことやしなければいけないことに取り組んでいます。
また、今できることも同じ障害の人ができてるから自分もできるだろうと思われやすく、自分が限界まで努力してできたことが普通にできることと思われることばかりなのも、自己評価を下げるところなのだろうと思います。実際社会で生きるというのはそういう側面があると思います。

今を生きることが一番大事だと思っているし、そのように努力しているつもりです。また、その努力の過程で自分をとりもどしていけることもあります。それは自分の絶対評価をあげることができるからです。ただ現実の評価を聞くと、もともとある不安が頭をだしてくるところがあります。私たちは一人では生きていけないので、聞かないといけないこともあります。この部分のバランスはとても難しく思います。

自分の状況で自分のことを評価したくないときもあるし、絶対評価がいいのか相対評価がいいのかも自分で使い分けて、自分で自分なりにポジティブに持っていけるようにしたいと思います。

最後に自分がどう生きていくかを自分なりに評価し、理解して行動していける道が見つけられるようにしていきたいですが、この不安との付き合い方がやっぱり鍵になるのだろうと思います。
また、生活を支える道具がどんどん改良されることで、できることが増えると生き方の選択が増えるし、不安に対するアプローチもできるのではないかと思っています。

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