見出し画像

シャニマスのすゝめ

どうも初めまして、ごますりドラゴン(@DragonboyYutaro)と申します。普段はTwitterにて愚にも付かない駄文を書き散らかしているのですが、自分の想いをまとまった形で残したくなったのでnoteといふものを、どらごんもしてみむとてするなり(土佐日記)。書くテーマは鑑賞した映画や読んだ本、シャニマスなどについて不定期に更新していけたらいいなと思っています。

さて、記念すべき第一回は勿論、私を生かす最強の動力である『THE IDOLM@STER SHINY COLORS アイドルマスターシャイニーカラーズ』(以下シャニマス)について書こうかと思います。シャニマスの何が素晴らしく、熱狂的なファンはどこに惹き付けられるのかを私なりに分析し、シャニマスの精髄を穿つ稿となることを目指します。拙い文章ではあるかと思いますが、私の熱があなたに伝わるように祈りながら書いたものですのでどうか大目に見て頂ければ助かります。


シャニマスとは


3周年キービジュアル。かわいい。アルストロメリアの三人の距離が近すぎてびっくりしちゃう。


シャニマスをまだ知らないという幸運であり不運な人のために、まずは概要をざっと説明する。

シャニマスとは、バンダイナムコネクサス/バンダイナムコエンターテインメントにより2018年4月24日からサービス開始した「アイドル育成シミュレーションゲーム」である。対応プラットフォームはIOS・Android・PC。基本的にはオフラインによるプレイが主ではあるが、育成したアイドルで全国のユーザーと対戦することも可能。漫画やCDにリアルイベント、実際の企業とのコラボなどの多彩なメディアミックス展開により、ゲームの枠に収まらないコンテンツへと成長している。今年の4月にはサービス開始から4周年を迎える。

そんな今をときめくコンテンツであるシャニマスがどれほど偉大な作品であるかということをこれから紹介していきたいと思う。
尚、本稿では敢えてリアルイベント等のメディアミックス展開についての記述は省き、ゲーム内だけの情報に留めておく(リアルイベントについては今後書くこともあるやもしれん)。

「生きている」キャラクター


マジで(マジ)。シャニマスのキャラクター達は、私に言わせれば「生きている人間」とさほど変わらない存在である。勿論、物質的な生とは全く異なる意味での「生」だが。
突然だが諸君、昨今のアニメ・ゲーム等に散見される「誇張されたキャラ付けにより定型の反応しか示さなくなった、現実離れしたキャラクター」に辟易してはいないだろうか?しているだろう。私もしている。極端なキャラ付けと、そのキャラ付けを活かすための安易な物語展開はフィクションをフィクションに固定し、リアリティを持って我々に迫ってくることは決してない。そのようなキャラクターは我々に一方的に消費される存在であり、「死んでいる」と言っていい。私の定義する「生きているキャラクター」とは、「作品を通して自律した個人として我々と対話する存在」である。

白瀬咲耶という「人間」

ここで、クール系アイドルユニット「L'Antica(アンティーカ)」のメンバーである白瀬咲耶を例に出そう。彼女は公式サイトによる紹介にもある通り、文武両道・容姿端麗、人を喜ばすことが好きと完璧超人のような人物として描かれる。だがしかし、彼女のシナリオを読んでいく内に、奥に秘めた繊細さや等身大な自己意識、抱え込んだ負の感情なども見えてくるようになる。彼女の特性を端的に言い表したものとして頻繁に語られるのが「寂しさ」であり、それは彼女のユニット曲中にも取り入れられるほど広く知られたものだが、一方でそれは「キャラ付け」「記号化」としても受容されてしまう。しかし、一度彼女のシナリオを読み、その「寂しさ」にしっかり寄り添ってみれば、それは決して彼女に固有の「記号」ではなく、大なり小なり皆抱えているようなものだということが分かる。「記号」は超人間的であるが故に「キャラ付け」であり、白瀬咲耶は「キャラ付け」を克服している。そしてこういったパーソナルな部分を「本質」として捉えるのはあまりに安易だ。当たり前と言えば当たり前だが、人間というのは一側面で判断できるようなものではなく、無数の側面が場に応じて表出するに過ぎない。普段見せる「表」の彼女も、時折覗かせる「裏」の彼女も、そのどちらもが紛れもない彼女自身であり、白瀬咲耶はそれ故に極めて人間的なのである。

白瀬咲耶さん(CV.八巻アンナ)。かわいい。


何年もの月日の中で積み上げられたシナリオの中で、少女たちは信じられないほど多くの表情を見せてくれる。様々な空間、人間、心情、それらの中でその場その場の言葉を紡ぎ、我々に新たな発見と感動をもたらす彼女たちは、たとえ人の手によって生み出された概念上の存在であったとしても、私の定義で言えば「生きている」。
シャニマスにおいて、キャラクターの解釈に正解はない。それは人間の性格を言葉で定義することが不可能であることと同様である。

イラストによる補完・増幅・顕現


スマートフォン向けゲームにとって、イラストの意義とは何だろうか。素晴らしいイラストのゲームであれば、それだけ集客・集金も見込め、ゲームの存続に大いに与するだろう。それがシャニマスのような基本無料アイテム課金制のゲームならば尚更である。そういう意味でもシャニマスのイラストは素晴らしい。年中行事に際してはその時々の衣装を着たキャラクターのカードが登場し、界隈は大いに盛り上がる。現行のアイドルマスターシリーズのゲームにおいて、イラストの質は各コンテンツでも最重要項目だろう。

P/SSR【さよならごつこ】杜野凛世。かわいい。

では、そういった商業主義に留まらないイラストの意義とは何だろうか。
それは、素晴らしいイラストはキャラクターへの理解を深め、物語への感動をより大きなものにするということだ。この意味で、シャニマスのカードイラストは至高の高みへ到達しかかっているといっても過言ではないと私は思う。

S/SR【我・思・君・思】幽谷霧子

このイラストを見て欲しい。コミュ(カードごとに付いているシナリオのこと)の内容はネタバレのため避けるが、読中、読後にじっくりとこのイラストを眺めると、この大胆な構図も、生い茂る草木も、差し込む陽の光も、その全てが芳醇な物語性を湛えて我々に鳴り響いてくる。テキスト・イラスト・サウンドの三位一体な交わりにより、絵画や小説では表現できないものを描き出せるのがサウンドノベルというメディアの最大の利点だろう。

P/SR【猫道カントリー】月岡恋鐘

すすまた、イラストによりその描く技法が異なるというのもシャニマスの優れた点の一つである。この【猫道カントリーは他のイラストに比べ、全体的に写実的な表現がされている。誰もが見たことのある裏路地の風景と、非現実的な存在である二次元キャラクターの奇妙な調和は我々にある意味での「実感」をもたらし、キャラクターへの心象に深みを与える。
今回はこの2つのカードイラストを紹介したが、これ以外にもシャニマスには膨大な数のカードがあり、それは現在も増え続けている。ほとんどのカードにはそれぞれ専用のコミュが付いており、多種多様な物語を美麗なイラストと共に味わえるのだ。
そんな至高の体験がシャニマスにはある。


世界を解釈するシナリオ


「シャニマスとはどんなゲームなのか」と聞かれれば、多くのシャニマスユーザーは少しの沈黙の末こう答えるだろう。「シナリオを読むゲームである」と。それだけこのコンテンツにおいてシナリオの存在は重要であり、また不可欠である。それはシャニマスが「人間として」キャラクターを描き、眉目秀麗なイラストによって世界を語ることの大前提に位置している。

現実の延長線上として

シャニマスのシナリオは我々読み手にある程度の努力を要求する。それは難解な物語を理解しようとする努力という意味であり、辛く苦しいプロットへの忍耐の努力という意味でもある。勿論、そのようなシナリオが全てではない。明るく楽しいものや、アイドルといちゃつくようなものも多数含まれている。しかし、シャニマスのシナリオで特に心に残り、深い感動を与えてくれるシナリオは、やはり得てして我々に努力を要求するものだ。

だがそれは決してネガティブなものではない。安直で簡便な心情の表現に、我々は深い共感を覚えるだろうか。易々と壁を乗り越える姿を見て、我々は胸を打たれるだろうか。失敗の無い人生を送ってきた人間の言葉に、我々は心を動かされるだろうか。苦しみ悩むからこそその先にある景色は何よりも光り輝くものだというのは、何もシャニマスに限った話ではなく、寧ろ一般常識ですらあるだろう。一定の努力すら逃れようとする、分かり易い快楽しか享受しようとしない昨今のオタク市場に蔓延する大量消費主義を私は否定する。

イベントシナリオ『アンカーボルトソング』
イベントシナリオ『はこぶものたち』

イベントシナリオ『アンカーボルトソング』と『はこぶものたち』はそういった意味での努力を必要とするものである。そしてそれ故に込められた含蓄や示唆は大きなものであり、現実世界の解像度や遠近感を変化させるだけの力を持っている。
『アンカーボルトソング』は、過ぎていく時間と変わっていく世界を見つめる中で、自分はどう変わっていくべきか、世界に対してどんなものを残していくべきかといったことを提示する。
『はこぶものたち』は、無数の人間によって織り成される世界というものの複雑さに直面し、より良い未来、優しい世界を模索する。
これらの物語は現代社会で生まれるべくして生まれた先進的なテーマであると同時に、極めて普遍的な問いかけでもある。

この他にも『アジェンダ283』や『アイムベリーベリーソーリー』などのイベントシナリオはその点が顕著であり、アイドル育成ゲームの枠を超えた意義深いテーマを投げかけてくる。これらのシナリオで描かれることはフィクションではあるが決してフィクションに留まるものではなく、現実に存在する様々な問題を反映したものである。それはつまり、物語の中で示されるアンサーが即ち正解ということではない。大切なのは、この物語を受けて自分がどう考え、行動するかということである。このような作品との対話こそが、シャニマスにただの娯楽にはない品格を与えるのだ。

※こういった書き方をすると、随分社会派なコンテンツだなと思う人もいるかと思うので捕捉。上述のシナリオの多くは確かに社会派なテーマを下敷きとしているが、それは即ちその社会問題について深く掘り下げることを目的としているものではない。例えば『アジェンダ283』はアイドルたちがゴミ拾いをするという物語で、シナリオ中でも「SDGs」についての言及があるくらいだが、しかしSDGsについての物語と言うよりは、SDGsと関わる中でのキャラクター達の心理や成長を描写することに主眼が置かれている。主役はキャラクターであり、社会派なテーマはキャラクターを最大限活かすための環境作りとしての意味が強いので安心してほしい(とは言え月日が経つに連れ社会派テーマの比重が増しているのも事実なのだが)。

個人的な物語

S/SR【君・空・我・空】幽谷霧子
シナリオイベント『くもりガラスの銀曜日』

上に挙げた2つのシナリオは決して難解ではないが、観念的であり感覚的である。それは豊饒な詩的表現に彩られた、文学性の高い物語であるということだ。文学的な物語とは、社会性に対しての反旗でもある。前項で紹介した「社会派」なシナリオとは、それが著わされること自体が社会に対しての貢献であり、即ち倫理的なものだ。それに対し、文学的なシナリオは社会への貢献というものを最初から度外視している。そこで描かれるものは倫理的な正しさや善悪などの社会性から解放された、純粋な感覚としての世界だ。故に文学とは役に立たず、だからこそ究極的な価値を持つ。
文学とは公共のためのものではなく、必要とする誰かのためだけに存在する。

この観点の下でシャニマスの文学性を考えるのならば、それは高い水準に達していると言える。【君・空・我・空】、【我・思・君・思】などの幽谷霧子のシナリオは、幽谷霧子という少女個人の感覚を最大限表現しようとする。彼女に映る世界、響く音、触れる他者、そういった「幽谷霧子」個人に帰属する主観的な感覚を、様々な表現を尽くして我々他者に伝えようとする。シナリオ中で描かれる霧子の心に映るのは紛れもない「ある世界の形」であり、霧子の心が創り出す「愛」に満ちた世界でもある。霧子の感性は文章を通じて我々に届き、霧子の「愛」は我々の内の誰かを救済することもあるだろう。それが現実にどのような利益をもたらすかではない、現実の延長線上としての物語に救われなかった人を救うために文学はあるのだ。

『くもりガラスの銀曜日』ではちょっとした言い間違いから、偶然気持ちが揃う日のことを「銀曜日」と呼ぶようになる。それは現実には存在しない観念的な時間、そんな時間を共有する中でいつしか「銀曜日」の原義は忘れられ、単なる合言葉へと変化していく。言葉が概念になり、やがて概念は意味を失い、しかし色褪せることは無い。「銀曜日」は共有され続け、大切な思い出として彼女たちを繋ぎ続ける。
言葉というものの不安定さと、だからこその強い輝きの詰め込まれたこの物語は私にえも言われぬ感動を呼び起こし、不覚にも涙さえ零れた。故に『くもりガラスの銀曜日』は紛れもなく私のための物語であり、私と作品を繋ぎ止めるものである。観念的であり、感覚的である文章は我々の心の奥深くを捉え、一体化する。その体験こそが文学の意義である。

見てみたいな⋯⋯ 優しい⋯⋯優しい⋯⋯
悲しい人のための⋯⋯空⋯⋯⋯⋯

【君・空・我・空】「おでこの空」より

わたし、今日を「銀曜日」にしたいなぁ!

『くもりガラスの銀曜日』第2話「素敵色のハニィ」より


総括

うだうだと書いていたら自己満のような文章になってしまった。つまり私が言いたいことは、シャニマスという作品はイラスト・キャラクター・シナリオ、そのどれもが比類ない高水準で成立している奇跡のような作品であり、そこで描かれるものには我々の思索や感性へと影響を与えるものすら存在するということである。
随分長々と書いてしまったが、シャニマスの魅力が一端でも伝わっただろうか。もし伝わらなかったのなら申し訳ない。如何せん手癖でこのような文章になってしまうのである。勘弁してほしい。
では最後に私がシャニマスで最も好きなポエムを添えて締めとする。

あの日もこんな雨だった
今日とおんなじ音のする
今日とおんなじ匂いのする
あの日もこんな雨だったのに
それはいつかの方が綺麗で
次も綺麗かどうかは知らない
それでも降るわ、それは必ず

『アンカーボルトソング』より

それでは。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?