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うちのオカンを紹介します。

平成最後の夏は実家に帰れずだったので、
オカンに懺悔を込めてnoteを書きます。

東京に出て7年。母とあと何回会えるだろう。
大型の休みが来るたびに、そう、思いながらすごしています。

小学校3年生の時に両親が離婚をして、
中学2年生になるまで女手1つで育ててくれた母。
東京に出てきてからより、ずっと短い期間だけど、この5年間はとても長いように思えた。

当時、「母子家庭」なんて言葉も、今に比べると耳なじみが少ない。
大好きだった父と友達と離れるのは辛かったのだけれど、母についていかないといけないような気がして、ちょっとずつ貯めた貯金箱と手紙を父のためにおいて、母と一緒に家を出た。

今考えると、私よりも若い歳で、小さい子どもを抱えて家を出る決心をした母はすごいと思う。
自分が社会人になって、一人で食っていくのもやっとなのに、子どもを抱えて、仕事も探してと、考えるだけで想像を絶する。

そんな大変さを分からない私は、やれ家がボロいだの、妹を迎えにいくのがめんどくさいだの、よく言ったものだ。
今、その時の私に会えるのなら、文句言わずに手伝えと言いたい。
しかし、そんな子どもの発言をはねのけるように
「住めば都だ」と、母はよく言っていた。
環境に左右されるんじゃなく、自分で楽しさや価値をつくっていくといった大事なことを、このとき教えてもらった。

母は、本当によく働いた。朝から夕方まで会社に勤め、子どもたちのごはんをつくったあと、綺麗な洋服に着替えて、また働きにでる。その時の服を一緒に選ぶのが、何よりの楽しみだった。
その時に履いていた、母のお気に入りの赤いスカートは、今は私の元にあって、冬になると時々私が履いている。

平日、そんなにも働いているのに、「良い仕事があったから」と休みの日も朝から晩まで働いた。

私の母は、周りからは“美人だ”と言われていて、若かりしころは小泉今日子にもよく似ていた。私はそんな母が自慢だった。
夜の仕事を終えると、時々、お客さんにもらったのか、綺麗なお花をたくさん抱えて帰ってくることもあった。
そんな母が、子どもながらに誇らしくも思えた。

ある日、夜中に母が帰ってきた音で目がさめた。
なんだかいつもと違う。
とても苦しそうだ。
どうやら、お店でお酒を飲みすぎたみたいだった。
子どもながらに「大丈夫かな」と心配しながら、背中をさする。

すると、
「…こんな母親でごめんね…」
そう言って泣きながら、また吐いた。

そんなことないのに。
私は母が居てくれるだけで十分だった。

もし、今、子どもを一人で育てると決めて、毎日頑張っている人が“自分をダメな親だ”と責めてしまっているとしたら、「そんなことないよ」と言ってあげたい。

あれから25年以上たった。
今もたくさん心配や苦労をかけるけれど、母は元気でやっている。
再婚をし、とても母を慕う猫の家族も増えた。
体型は、小泉今日子から、ジャイアンの母ちゃんに変わった。

でも、帰省したときなんかは、毎回別れ際で、相変わらず泣いている。

ごめんよ。

もう少し、東京で頑張りたいんだ。

未だに、東京へ招待できていないことが情けなくなるけれど、もう少し待っていておくれ。
必ず、東京で美味しいご飯がたべられるお店や、
楽しい場所に連れてってあげるから。

だから元気でいておくれ。




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