恐怖政治

 自分が初めて台湾へ入国し、観光した時は李登輝時代が始まったばかりの頃だが、親戚たちは台湾の歴史や政治の話はほとんどしなかった。その後、親戚達が度々東京へ遊びに来るようになり、東京で会うと、散々、国民党がしてきた恐怖政治や228事件や白色テロの話をしてくれた。たぶん、台湾で話すとどこで誰が聞いているかわからないから用心していたのだろう。

 僕の両親は70年代中頃に韓国に住んでいた。僕はずっと住んでいたわけでなく、夏休みや冬休みに会いに帰っていた。父から外ではもちろん、自宅にいる時でも韓国政府の悪口を絶対に言うな!と厳しく注意されていた。父は盗聴を恐れていたのだ。

 父はソウルの空港を出入りする時にしょっちゅう空港職員(たぶんKCIA)に声をかけられたそうだ。内容は「先週はどこどこの工場とどこどこの会社を訪問して、誰々と話をしましたね。ビジネスはうまくいきそうですか?」といった類の話題だ。つまり、父の普段の行動の多くのことが知られていたようだ。

 僕自身が70年代韓国ソウルの空港で度々見たことだが、税関の荷物検査で客のスーツケースから日本の週刊誌が出てくると、係官が1ページづつチェックして、問題あると判断したページはその場で次々にビリビリと破って捨ててから客に返していた。そういう係官達はどう見ても普通の税関員じゃないことは当時、まだ子供だった僕が見てもすぐにわかった。態度が横柄だし、ヤクザっぽかったし、何かの拍子に腰をかがめると、ズボンの背中部分にコルトガバメント自動拳銃が裸で無造作に突っ込んであった。おそらくKCIA関係の職員だったのだろう。

 父は空港でKCIAらしき職員に声をかけられた時によく小遣いもせびられていたそうだ。でも、逆らったらスパイとかにでっち上げられて、その後どうなるかわからないと思ったらしい。それで仕方なくお金を渡したり、おしゃべりに付き合っているうちに仲良くなったそうだ。

 その後、仕事上のパートナーがスパイ容疑で捕まり、拷問を受けた時(父もその場に呼ばれ、拷問を見せつけられたそうだ)、空港で知り合っていたその人に連絡して、頼んでみたら、パートナーを助け出すことに力を貸してくれたそうだ。その父のパートナーはスパイなんかではなく、明らかに冤罪だった。実は父のパートナーを救ってくれたその人、後に韓国の歴史に残るような大物になっている。

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