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あっと驚く、台北の語学学校での出来事

 約 25 年前台北市内のある語学学校 ( すでに廃校 ) に在籍していた時、金曜日に授業が終わった後、スタッフから明日朝8時に学校の入り口に集合して! と突然告げられた。南部の北港までバスを借り切って行く修学旅行だと言うのだ。でも学校のそんな大事な行事なら普通は1週間前とか2週間前に言うべきじゃないの?と不思議に思った。

 当日集合場所へ行くと、語学学校の校長夫妻や先生、スタッフたちは皆んな揃っていたけれど、僕のクラスメートや他のクラスの外国人学生が来ていない。来ていた学生は僕の他にイケメン韓国人男性一人、イケメン日本人で台湾人の血もひく男性、何国人か覚えていないがイケメン白人男性が二人だけだった。白人女性が一人ぐらいいたかもしれないが、記憶が曖昧だ。

 当時仲よかった先生に理由を聞くと、スタッフや先生たちに気に入られている学生しか呼ばれていないと教えてくれた。その学校は若い女性で英語がすごく話せる先生が多かった。外国人の彼氏を探すために、中国語を教えに来ているのが見え見えの先生もいた。韓国人は韓国で有名なビリヤードの選手で、台湾の選手への指導に来ていた人。そして、イケメン日本人はお母さんが台湾人で日本育ちの人だっ た。日本で台湾の芸能事務所の人にスカウトされ、台湾へ来て、モデルや俳優の仕事を始めたばかりの人だった。

 じゃあ、何で僕のような日本人の叔父さんが呼ばれたの?と聞くと、あなたは普段、台湾語使って校長やスタッフと話していたから、 皆んなの印象に残っていて、あの日本人も呼ぼうということになったのよ! と言っていた。

 この語学学校の校長夫妻は客家人だった。校長のお父さんは客家人の金持ちで、奥さんが3人いて、第一夫人が客家人、第二夫人が日本人、第三夫人が上海人だった。それで校長は客家語、台湾語、中国語、日本語、上海語の全てが流暢に話せた。日本語は僕が聞いても日本人の日本語と変わらなかった。

 校長は日本語がある程度話せる年配の台湾人と話す時と僕ら日本人学生と日本語を話す時にわざと発音やアクセントを変えていた。台湾人と話す時にはわざと台湾訛りのきつい日本語に変えていて、僕ら日本人学生と話す時には標準的な日本語で話をした。理由を聞くと、話し相手に親近感を持ってもらいたいからだと言っていた。

 ある時、台湾に来たばかりの日本人学生が散髪に行きたいけれど、まだ中国語が話せないからどうしたらいいかわからない!と校長に相談していた。校長はすぐに日本語がわかる理容師を電話で学校に呼び出して、日本人学生に紹介した。その理容師には台湾訛りで「あんた日本語プロペララカラ、ライジョウブラヨナ! 」と言っていた。日本語ペラペラを台湾人年配者は台湾訛りで日本語プロペラと言う人が多いのだ。

 また、ある時は北欧から留学に来ていた中国系女子学生と楽しそうに上海語でおしゃべりしていた。その時に僕は校長になぜ上海語が話せるのかを聞いて、校長の出身背景を教えてもらった。僕は上海語は話せないが、聞けばこれは多分上海語だということはだいたいわかる。

 僕はその校長に会うといつも台湾語の質問や客家語の質問をして教えてもらっていた。それで台湾で初めての外国人向けの台湾語スピーチコンテストがあるから出なさい! 私がちゃんと指導するから! と言われて、半ば無理やり決められてしまった。話す内容の原稿も校長が書いてくれた。そして2週間ぐらい毎日、校長がつきっきりで発音やアクセントの指導をしてくれた。結果は二位だった。その時に一位だった人は台湾人と結婚していた日本人女性だった。種明かしすると、校長もその一位の日本人の指導者も実はそのコンテストの審査員でもあった。

 でも、その一位をとった日本人女性の台湾語は本当に上手だったし、話の内容もとても楽しい内容で、会場を湧かせていた。本当に一位受賞にふさわしい人だと思った。

 当時通っていた学校よりも学費が格段に安い語学学校が台北駅の近くにあるという情報をインネシア人同級生たちから聞いて、彼らと一緒に様子を見に行ったことがある。その学校のスタッフたちの中国語は独特の訛りがあって、すぐに台湾人ではないことに気がついた。 でも外からかかってくる電話にはスタッフは皆んなちゃんとした台湾語で話していた。後で知ったことだが、その学校は福建系のフィリピン華人たちがやっている語学学校だった。学費はめちゃくちゃ安かったけど、その学校に籍をおいても定住ビザは降りないことがわかり、行くのはやめた。

 その後、自分が通っていた語学学校でも定住ビザが降りなくなってしまったので、定住ビザの取得ができる語学学校に転校した。この語学学校で仲良くなったブラジル人はお父さんが台湾人でお母さんが日系ブラジル人だった。中国語は殆どできないけれど、台湾語はけっこう色々なことが話せる人だった。僕も彼に台湾語で話しかけたことがきっかけで仲良くなっていたし、彼は学校の先生やスタッフの間でも台湾語が通じるブラジル人として、非常に人気者になっていた。

 ある時、彼からちょっとメールを見てくれ ! と頼まれた。ブラジルの友人から来たメールなんだけど最後の一言がわからない。彼は日系だからその一言は日本語かもしれない ! と言うのだ。見てみたら、その一言はなんとdomo だった。

 彼がブラジルへ帰国した後に彼の親戚の子たちが語学学校へ入学してきた。彼らもやはりお父さんが台湾人で、お母さんが日系人だった。 高校卒業後の進路で親から日系人の身分で日本へ働きに行くか、台湾系ブラジル人として台湾へ留学するか選びなさい ! と言われ、台湾を選んだと言っていた。中には日本名を持っている人もいた。

 僕は皆んなに自分の年齢は隠していた。ある時、学校で知り合った日本人女性とタイ人女性と一緒にランチを食べた後に別の店に入ったら、店主に何故か年齢を聞かれた。彼女たちに聞かれたくなかったので、わざと台湾語で答えたらタイ人女性に僕の年齢がバレてしまった。

 彼女のお祖父さんは潮州系タイ華人なので、彼女も潮州語が理解できた。潮州語と台湾語は同じ閩南語系言語なので、僕が台湾語で答えた年齢もすぐに聞き取れたのだ。

 僕の中国語の学習は台湾に来てからほぼゼロからのスタートだったが、台湾語は台湾へ来る前から学習していたので、台湾語が少しできたことで、語学学校時代には随分いい思いや得したことがあった。最後に籍を置いた語学学校は大学の日本語学科の学生と校舎や教室を共有していたので、台湾語で話しかけることで、日本語学科の一般台湾人大学生ともすぐに仲良くなれた。また1998年にインドネシアで勃発した華人排斥暴動から逃れるために、1999年から2000年代の初め頃にかけて、大量の若いインドネシア華人たち、特に10代後半から20代前半の多くの若い女生が台北に来ていた。 台湾に親戚(外省人や華僑の身分で台湾へ移民した人たち)がいるという人たちもいた。どこの語学学校でもインドネシア華人学生であふれかえっていた。僕が在籍した語学学校でも全校生徒が500人ぐらいの中、400人ぐらいがインドネシア華人という時もあったようだ。

 インドネシアでも華人が特に多く住む地域から来ていた若者の中には中国語は全くできなくても、潮州語、客家語、福建語が話せる人たちが多かった。インドネシアでは長らく中国語の教育が禁じられていたので、家庭内で使われる潮州語、客家語、福建語、広東語などの中国華南の地域言語は話せても、共通中国語が話せない、漢字の読み書きができない人が多かった。だからこそ台北の語学学校に来て、共通中国語を学び、インドネシアの暴動が完全に治るまで、親元を離れて台北で生活していた。台湾の大学への進学を目指している人たちもいた。

 僕は彼ら、彼女らに積極的に台湾語 ( 潮州語や福建語と同系の言語 ) や台湾の客家語を使って話しかけていたので、インドネシア華人学生の間で有名になった。 会えば挨拶や言葉を交わす顔見知りも増えた。そして当時、24歳年下の潮州系インドネシア華人女性の彼女もできた。

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