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小夜左文字:刀剣談、日本趣味十種、日本刀講座、日本刀物語、日本名刀100選





『刀剣談』高瀬真卿,日報社,1910


諸家の名刀より抜粋

「名物牒」に小夜の中山と云ふ左文字の短刀がある。長さ八寸一分東海道小夜の中山で近江の人が十四歳で母の仇を討つた時の短刀である。而(しか)してこれは今土井子爵の家に傳はつて居ると云ふ話である。

『怪談と名刀』では駿河の人が仇討をしたと記したのに対し、こちらは近江の人と記述しています。
また刊行当時はまだ土井家に伝来していたことがわかります。


『日本趣味十種』芳賀矢一,文教書院, 1924


刀剣の話(p364)
名物小夜左文字といふ名高い短刀がる。刀長八寸一分によき短刀で、今は神戸の田村市郎氏が蔵して居られる。


『日本刀講座第五 歴史及び説話』岩崎航介ほか,雄山閣,1934


本朝名刀伝目/近藤周平

この短刀(小夜左文字)といふのを神戸の田村氏が現に所蔵されてゐる。先年大阪の刀剣会にて拝見し其後何かの会でも拝見したように覚えてゐる。

『日本趣味十種』『日本刀講座第五』より、小夜左文字が1924年頃何らかの形で土井家より外に持ち出され、神戸の田村市郎氏が所有することになったことが分かります。
田村氏は明治44年下関に田村汽船漁業部(日本水産の前身)をおこした人物です。
田村氏が所蔵したのち、1936年には大阪の個人の方の所有になっています。


『日本刀物語』福永酔剣,雄山閣,1964年


『日本刀物語』は1964年刊行と1988年刊行のもので小夜左文字の章末の記述が大きく異なっていました。
この24年の間で小夜左文字は柴田氏の手元をはなれており、80年代頃より奈良の個人の方が所有していました。

それから間もなく細川幽斎の有に帰した。幽斎のごく晩年のことらしいから、慶長の中頃のことであろう。
小夜左文字は幽斎の秘蔵刀であったにもかかわらず、細川家を出ている。
或いは寛永4年(1627)領民の飢饉を救うため、「有明」の茶入とともに売ったのかもしれない。
黒田家、浅野家にあったこともあったが、寛文(1661)のころには土井家にあり、享保(1716)のころには京都の町家にあった。
戦前、神戸の田村氏が秘蔵、のち秋田の刀匠柴田果氏の有に帰した。今なお令息が秘蔵されている。

◆1988年版 こちらは結構所蔵している図書館が多いようです。違った点だけ抜粋。

佐与中山夜泣石という義太夫節が大坂豊竹座に上演されたのは宝永7年(1710)だから、名物帳のあまれたころには流布された伝説であろう。(略)1661年のころには土井家、1716年には京都の町家にあった。
戦前神戸の田村氏が秘蔵、のち秋田の刀匠の有に帰した。果氏の没後、令息が大学での学費にするため売却したようである。※指定文化財登録は令息の頃


『日本名刀100選』佐藤 寒山,秋田書店, 1983


(仇討の)話としては面白いが本当は名物帳に載せている『光甫覚書』の通り、もともとは細川幽斎の愛刀で、それを子の三斎に譲ったもので年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山の歌を、命なりけりを我が命であるという歌意にとって、俗にいう命から二番目といった意味をしゃれて小夜の中山を取り、小夜左文字と名付けた。
この短刀は大正昭和の愛刀家で刀も打った秋田の柴田氏が秘蔵し庵号を小夜左庵といった。

仇討話はフィクションだろうという見解を記しています。


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