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障害者はエラいのか?

重い。このテーマは重い。あまり気が進まない。でも、障害のある子のことを書くなら一度は通らなければいけない気がするので書く。

私が10代の頃、「ゴーマニズム宣言」という漫画が売れていた。私は立ち読みでその存在を知り、それからは自分で買って読むほど、面白いと思った。

今まで学校で習ってきた歴史を疑えとか、薬害エイズ問題を追いかけたルポとか。誰とでも喧嘩上等の作者が痛快で、若い私はひきこまれた。

そこで、弱者権力という言葉に初めて触れた。これは作者の造語なのだろうか。

差別を受けている側や、障害がある者が、その弱さを盾に、言論弾圧をしたり、不当な主張を通すときなどに用いられる言葉、と私は理解している。そして、それは弱者本人だけでなく、弱者を祭り上げて、いいような道具として使おうとする人にも向けられていた。

私は、この言葉を聞いて思い出すことがあった。

高校生のときだ。私は予備校で友達何人かと輪になっておしゃべりをしていた。その輪には、予備校の若い先生も入っていて、年もそう違わないので、気楽におしゃべりをしていた。

そして友達の1人が言った。「先生ってさあ、指が特徴あるよねー!私いっつも気になっちゃって!」先生は「ああ、これ?バイクの事故で、…ってそんな見ないでよー!」みんなの視線がいっせいに先生の手に集まり、先生は笑って手を後ろに隠した。

私も先生の手を見ようとしていたところだった。私はうろたえた。とっさに、愚かにも、自分にどこか怪我がないかと探した。「私もここが治らなくて!」と言いたかったのだ。しかし、私は全くの健康体だった。その後のことは気まず過ぎて覚えていない。

私は、あのとき本気で自分になにか怪我があったら良かったのに、と思ったのだ。健康であることが申し訳なかった。先生の手を見ようとしたことを恥じた。

もちろん、このときの先生は権力をかざす気など全くなかった。でも、弱者権力とは、こういう人の気持ちにつけ込んで、悪用する場合に使われるのだと思う。

私は、こどもの障害をnoteに書き始めて、いつもこのことがひっかかっていた。

障害、障害って言うけど、あなたの子なんて、たいしたことないじゃないか、もっと大変な人もたくさんいるだろう、とか。

今まで障害のことなど語ったこともないくせに、こどもに障害がわかったから、急に当事者面して、お涙頂戴か、とか。

そうやって語りかける自分がいつもいた。

これは正直言ってわからない。反論ができない。でも、確かなのは「うちの子には障害があって」と言った途端、好むと好まざるとに関わらず、何かの力を手にしてしまうという事実だ。

これは日本だからなのだろうか。障害を、当事者でない人が気楽に話題にすることは出来ないし、障害がある人をどう傷つけないようにするか、腐心しなければならない、という風潮がある。少なくとも私はそうだった。

もちろん、障害者の気持ちを考える、ということは有り難いことだし、配慮してほしいこともある。でも、それで障害者が「扱いづらい、なるべく近寄りたくない人」になっては、元も子もないのだ。

だから私は、私の「弱者権力」に自覚的でいたいと思う。嫌でもなんでも、私はその権力を与えられてしまったのだ。私の前には、高校生のときの私がいる。自分が健康であることにいたたまれなくなっている若い女の子。今の私と、その若い女の子の、どっちが偉いわけではない。一方的に気を使わせて、疲れさせてしまえば、女の子は私の所から、そうっと離れるだろう。

私が使わないと決めている言葉がある。「実際にやってみなきゃわからない」とか「何もしらないくせに」という類の言葉だ。仮に腹立たしくなったとしても、これだけは言わないと決めている。それを言った途端、どんなに相手が正しくても、私の方が正しくなってしまう可能性があるからだ。

他にも、気をつけないといけない言動はあると思う。私も「弱者権力初心者」なので、まだ探り探りだ。

私は、障害がある人ともそうでない人とも、つながっていきたい。そのために、お互いにできるだけ居心地のいい関係性でいようと思うのは、当然のことだ。

少し、小心者が過ぎるだろうか。でも、私は今のこの気持ちを、いつまでも忘れたくないと思っている。

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