七月某日 走る本屋さん
Twitterで走る本屋さん 高久書店(https://twitter.com/books_takaku?s=20)なるアカウントを発見した。
クレープ、焼き芋、焼き鳥、コーヒースタンド、などなど数多移動販売を目にすることはあるが、なるほど移動販売の書店にはお目にかからない。
定まった場所を持たずにする商売になにかノスタルジックな印象を受けるのはわたしだけだろうか。(お目にかかったことはないけれど)ラーメンの屋台や、町のお祭りにでるにぎやかな出店たち。モノとカネの交点として、なによりヒトとヒトの交点として、普段そこにはない「非日常」をもってきてくれる店が、好きだ。
荷台にパンパンに本を詰めて、未だ知らぬ街へ車を走らせる。そうしてあちこちを飛び回る(走り回る?)人生も、素敵なものだ。
そういえば、移動書店ならぬ移動図書館ならあちこちで展開されていたような。情報へのアクセシビリティを確保する点で、かつては重宝されていたようだ。今はインターネットの力もあってか、すたれてしまっているところも多いらしいけれど。
一つ思い出した話がある。
イギリスのとある片田舎の村に、ひっそりと置かれている本棚の話だ。
この本棚はひとりでに移動したりしないし、本の販売や貸出を行っているわけでもない。何の変哲もない、いやちょっぴりカラフルな、ただの本棚である。
村の中心部の公園に置かれたその本棚には、老若男女問わずポツリポツリと人が集まってくる。みな自分の読み終わった本を共有の棚に置き、替わりに他の人が置いて行った本を同じだけ持って帰る。自然発生的な図書館が形作られているわけだ。
当然、まったくもって自立してシステムが回っているはずはない。エッ、と驚くくらいに優秀な管理人さん(確かオックスフォードの修士だか博士だかの人だった)がいて初めて、維持されていたはずだ。
長い時間を経て、何人もの村人たちの手を渡っていくなかで、本にはシミや汚れだけでなく、書き込みやページ端の折り目なんかが刻まれていくはずだ。村の歴史と共に、村民一人一人の人生を渡り歩きながら、未来へ未来へと受け継がれていく本たちを思うと、なんだか誇らしいような気持になる。
日本の「古本屋」文化に惹かれてしまうのも、同じロマンを感じているからだ。いずれ神保町に行ったときにでも、そんな話をしよう。
補論 書籍とインターネットの話
書籍もインターネットも、情報を伝える「メディア」として同じ系統のものとして捉えられることが多い。「本を読まなくてもネットでわかる」だとか、「ネットの方が新しい情報が手に入る」だとか。よく聞くよね。
あらためて言葉にするまでもないけれど、書籍とインターネットは全く性質の異なるメディアだ。なんたって互いに正反対の強みと弱みをもっているんだから。
書籍は、小さく、弱く、古く、複雑な情報を、残すために記す手段だ。対してインターネットは、大きく、強く、新しく、簡潔な情報を、広げるために記す手段になる。
(以上書きかけ、追記なし)
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