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司馬遼太郎の何が問題か? 提灯が照らすもの

 さて、いよいよ幕末史です。

 会津藩家老・田中土佐玄清を先祖にもつ田中清玄は、司馬遼太郎をこう評しました。

「薩長の提灯持ち」

 これを初めて聞いた時は、いくらなんでも言い過ぎではないかと思いました。『王城の護衛者』をはじめ、会津藩を顕彰する作品だってあるし、会津若松市には司馬遼太郎の碑文すらある。
 けれども今は納得感があるのです。
 
 会津藩が公然と“賊軍”呼ばわりされていた時代だって、会津藩が褒められることはありました。白虎隊が代表例です。慰霊、顕彰とからめて、あんなふうに散るのが美しいとされて、散々プロパガンダとして持ち上げられました。

 飯盛山にはホラが現実になったかたちでムッソリーニの碑がたつ。ヒトラーユーゲントがやってくる。

 プライドをくすぐり、慰霊と顕彰をしつつ、取り込んでゆく。なかなか巧妙な手口でした。死者のシンボル化はあやうい。ましてや、自害となればあやうい。飯盛山で顕彰されている全員が自刃したのか、否か。実は現在も研究過程にあります。なまじ神話と化しただけに、なかなか難しいものがありまして。

 顕彰と慰霊をセットにする危険性は、そんなところにもある。だからこそ、アイヌの遺骨がらみでウポポイにも警戒しているのですが……それはさておき、司馬遼太郎に話を戻しましょう。

幕末史は政治と地続きである

 咸臨丸でアメリカに渡った福沢諭吉は、ジョージ・ワシントンの子孫のゆくえを誰も知らないことに驚きました。これがデモクラシー! そう驚いたことで有名な話です。
 残念なことに、150年という歳月を経ても私たちは福沢諭吉の時代からさほど進歩していないのではないかと思ってしまいます。

 中国共産党ですら、毛沢東の孫に強力な実権を握らせていない。韓国では、二世政治家の朴槿恵が引き摺り下ろされた。

 一方で、日本はどうかといいますと、明治維新150周年行事を政治家が主導で盛り上げる。明治元勲の子孫だから素晴らしいという論調は出てくる……青い血はまだまだ効くようです。芸能界でも、作家でも、何にせよ二世だの血筋が出てくる。映画雑誌は、イギリス人俳優がパブリックスクール卒だの、貴族の家系だの、仰々しく盛り立てる。あのドラマに出ているあの俳優は、血筋がすごい! ご先祖にこんな有名人がいる、びっくり! それって一種の珍獣扱いではありませんか? 俳優ならば演技をみればよいでしょうに。
 HBOが『ゲーム・オブ・スローンズ』で、血統による王位継承を強固に否定したあとの2020年代でも、この通りです。

 そういう弊害があるからこそ、海外の歴史ものでは実在人物を扱わないと指摘してきました。血の通った人間は、気軽に神輿にするものではありません。

 そういう“ゲームのルール”を破っていること。司馬遼太郎はその時点で、私は称賛する気になれませんが。戦国大名ならば、まだしも無害です。戦国大名が権勢を持っていた時代は、明治維新によって終わっています。

 けれども、明治維新はちがう。
 山口県が歴代首相を一番多く輩出していると、2020年になってもニュースになりました。
 山口県民が優秀だから? これは因果関係が逆転した典型例です。要するに、藩閥政治の流れがずっと続いている。それだけのことです。

 気づかないのか、そのフリなのか? くどいようですが、海外はとっくに気づいています。世界遺産に松下村塾が登録され、国際政治案件になりました。雉も鳴かずば撃たれまいとは言ったものですが、幕末史という雉はここ数年、やたらと大声で鳴いているようですよ。

 実在の人物を顕彰するにせよ、幕末以降は特に利用されやすい。そこは抑えておきましょう。

エモーショナルな幕末論、漂白された政治色

 小説と歴史書はちがう。感情をゆさぶることこそ、小説の本領発揮ではある。だからこそ、“ゲームのルール”を守り、個人の顕彰なり、事実誤認を防ぐ工夫は必要です。ましてや“第二の歴史教科書”扱いは危険です。

 私は山田風太郎の幕末や明治物は好きです。“ゲームのルール”の範疇におさまっていて、いくら感情をゆさぶられても危険性はない。

 けれども、なまじ司馬遼太郎はめっぽううまく、史実と創作の区別があいまいで、実名を使い、それが政治に直結しているから厄介なのです。

 司馬遼太郎の場合、いくら格好良く佐幕派を描いても、どうしたって誘導したい方向性が見えてきます。物語としてめっぽうおもしろいし、『燃えよ剣』の土方歳三はじめともかく素晴らしいから、文句をつけにくくはなるのですが。

 『燃えよ剣』について語るとなると、ともかくトシさんがカッコいい、ヒロインの雪もよい……そういう話に突っ込んでいきます。確かにあの話はおもしろい。けれども、それはそれ、これはこれ。

 あんなに素晴らしい新選組を描いたからには、司馬遼太郎が【薩長の提灯持ち】のはずがない。そういう反論は思いつきます。新選組を評価することは、長らくタブーでしたから。

 昭和初期、おおっぴらに顕彰はできないけれども、彼らを知る証人がまだ生きているうちに、残しておこうと子母沢寛らが、証言ベースにまとめ始めます。 それはそれで大変貴重なことであり、偉業です。民衆目線の歴史という意味で結構なことで、否定するつもりはない。ただ、民衆視点の歴史、稗史目線が生きてくるのは、あくまで正史あってのこと。車は両輪がなければバランスを欠きます。

 新選組を語る上で「誠」として掲げられた忠誠心、恋愛沙汰、逸話がベースとなってしまう。フィクションはさらにそれを広げていくことになったと思えるのです。
 政治色もかなりある団体なのですが。それは当然です。幕末の京都におり、かつ会津藩所属組織であったのに、ただの気のいいお兄ちゃんでいられたはずもありません。

 これは司馬遼太郎だけの話でもありませんが、どうにも新選組フィクションからは政治色が脱色されてしまうとは思えるのです。それはなかなか、彼らにとって失礼な話とも思える。

幕末日本にいた! 西洋思想の持ち主とは?

 フィクションを作り上げるうえで、斉藤一左利き説あたりは、さしたる実害がないと思えます。
 私が気になるのが、近藤勇は無能で、実質的には土方歳三が新選組を取り仕切っていたというものです。

 調べれば調べるほど、どうにもわからなくなっていく。確かに土方には若い頃から、リーダーシップや聡明さがあったとされる証言はあります。
 けれども、教養や教育面では近藤と比較すると見劣りしてしまうところはある。土方は多摩時代俳句を趣味しており、辞世は和歌です。

 一方で、近藤の場合は関羽を崇拝しておりました。辞世は漢詩であり、かつ自らの境遇を文天祥になぞらえている。近藤の教養はかなりのものです。といっても頭でっかちということもなく、政治力もあった。一会桑政権の切り札として動き、幕府の政策にまで意見できる先進性がありました。

 新選組だって、身分を問わない戦闘集団としては奇兵隊のような側面はある。西洋式の医療、食生活、軍事訓練も取り入れていた。刀槍頼りの時代遅れ集団とはされがちですが、それは屋内戦闘や逮捕を主軸とした彼らの任務を考えれば妥当なところです。

 新選組の任務は、いわば憲兵のような性質もあります。近代における憲兵は、ナポレオン戦争以降増えていった組織形態です。幕府なり会津藩がその影響をどこまで受けていたのか、私もはっきりと理解できてはいない。けれども、フィクションでさんざん言われるほど時代遅れというわけでも、西洋思想と無縁であったわけでもありません。

 そういう組織を運営する近藤が、愚かで素朴な人とは思えません。関羽のような大人(たいじん)としての振る舞いを意図的にしていたように感じられる部分はありますけれども。

 新選組は近藤勇が動かしていた。そんな当たり前のことに、違和感があるとすれば、それは『燃えよ剣』であるとは思えます。現に、『鞍馬天狗』はじめ司馬以前のフィクションでは、土方より近藤が前面に出ていた。変わった重要な起点はどうしたって司馬遼太郎でしょう。

 この司馬由来の新選組像は、なかば史実のように後進作品にも影響が出てしまっている。典型例と知名度でいいますと、『るろうに剣心』が代表です。新選組隊士があきらかにモデルとなった人物を説明するとなると、とても手間がかかりました。

「この人物像は、沖田総司をモデルとしています。けれども史実ではなく、司馬遼太郎の創作で……」

『るろうに剣心』の新選組が複雑だ 司馬遼太郎の影響強くてややこしや https://bushoojapan.com/jphistory/baku/2020/08/23/150345

 二度手間がかかる。これは結構な弊害だし、大問題だと思いました。
 新選組のイメージは、逸話とそれをふくらませたフィクションがベースになっていく。だからこそ乙女ゲーでも大人気なのかもしれませんが、どんどん泥沼に陥っているのではないかという気持ちにはなります。

 新選組は内部粛清が多いとか。なんでも殺傷で解決する野蛮な集団だとか。そういうイメージをSNSでつぶやいてこれまたRTやいいねを稼がれますね。けれどもこれはキッパリいっておきます。

 幕末期の集団なり組織は、内部粛清や殺傷がともかく多い。頻発している。藩、思想、主義を問わない。そういう時代の特性だと思った方がよいかと思います。新選組だけが異常だと思っていると、誤解が増えてゆくばかりですし、それこそポスト日露戦争時代を引き継いだ価値観だと思いますが。

 本項では敢えて新選組を取り上げました。
 司馬遼太郎が幕末史の維新側を描く過程において、どんなテクニックを使ったのかは、一坂太郎『司馬遼太郎が描かなかった幕末』にまとまっています。決定版です。ぜひお手にとってみてください。三流歴史ライターなんかよりも、よほどためになることを指摘しております。

【脱亜入欧】という美酒

 そうまとめる前に、新選組に話を戻しまして。
 どうして土方を持ち上げて、近藤を落とすようなことをしたのだろう? 新選組について調べていて、司馬遼太郎のエッセイをみていて、ピンと来ました。

 織田信長像にせよ、司馬遼太郎は、日本人でありながら西洋の思想を持つ人間が好きです。土方が優れている理由として、幕末の日本にありながら、西洋の軍隊における副官のような役割を果たしているところが素晴らしいという趣旨のことが書いてあります。

 確かに、副官は重要ではあります。ナポレオン戦争における、ネイとジョミニは有名ですね。
 とはいえ、西洋の軍隊といっても、時代なり国によってかなり異なるものではあるし。副官が参謀の役割を果たすとなれば、それこそジョミニくらいのきらめく才能は欲しいところ。土方はそうだったのかどうか? 土方に全てを委ねなければならないほど、近藤は無能だったのか? 
 もしかして、順番が逆なのではないだろうか?

 前提条件として、自分がプッシュしたい英雄は、西洋思想の持ち主でなければならない。だから後付けで、史実を曲げてでも、西洋の香りがする英雄を自作で作り上げていったのでは?
 対極にいるのは、漢籍なんぞぶつくさ読んでいる頭のお堅い連中です。近藤勇がそうです。

 どうしてそんなことをするのか?
 その答えは簡単です。【脱亜入欧】――司馬遼太郎が幼少時からどっぷり浸かった思想です。

 西洋が世界を支配する時代が訪れた。けれども、日本は東洋でありながらもその中に入り込めた。そんな【脱亜入欧】思想は、自分たちは他の東洋人どもとは違うという、レイシズムを含みつつ、日本人を酔わせてゆきます。いわば毒の酒でした。

 第二次世界大戦で敗北して、抜け切るかといえば、そう単純な話でもない。

 アメリカは、鉄のカーテンの向こうにいってしまった中国や北朝鮮に対抗するためにも、日本を取り込みたい。
 第二次世界大戦を“太平洋戦争”と呼んで、“日中戦争”の影を薄くする。東側の中国に、西側日本は頭を下げる必要はないと。西側に引き込むために、名誉白人扱いは継続する。アジア人の中でも特別だからすごいのだとおだて続ければ、日本人は参ってしまう。
 だって、明治維新以降、そういう自意識のもとで生きてきたのだから。イギリスはしくじったけれど、アメリカはうまくやれるさ。二度目だもんな!
 
 そういう昭和の日本人です。【脱亜入欧】を果たしている日本人像を描かれたら、そりゃ酔いしれますよね。信長が選んだ岐阜という地名が中国の故事由来であるからには、信長が漢籍知識を無視したなんてありえないって? そんなこと捨ててよろしい話です。邪魔だもの。イメージが大事ですから。

 やっとここまで、【脱亜入欧】までたどりつきました。これが一番いいたかったことかもしれない。レイシズムという毒を感じたら、いくら美味だろうと、そんなもの私は飲み込めないのです。

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