サンタクロースはいない

ぬいぐるみ
「ただいま」
言葉は空へと消えていく。シングルマザーの家庭で育った僕は一人、夕日のような常夜灯に照らされていた。別に今に始まったことじゃないし、僕のために働いているからこうなってしまっているのも分かっている。分かっているけど、こんな日になると他の何でもなくて、母の温もりが欲しい。そう感じてしまうのはまだまだ甘えているからだろうか。
ゲームをしていたらいつの間にか時計は七時を回っていた。もうしばらく新しくゲームは買ってもらえていないから、飽きている。でも、何もしないよりかは気が紛れて時間を忘れられるから作業のように同じゲームを繰り返す。いつもと違う日でも、いつもと同じ。母が帰ってこないのもいつもと同じだ。
チンして食べてねと書いてあるしょうが焼きの皿をレンジに入れ、炊飯器から白米をさらにうつす。何気なく、それを食べるといつも通り美味しい。確かにそう感じたのに何かが足りず蜜柑に手を伸ばす。皮を剥がして実を噛み、果汁が口内に溢れるとともにドアが開く。
「ただいま」
普段が崩れた。サンタクロースが来る時間帯に帰ってくる母の声だった。彼女は続ける。
「いつも一人にしてごめんね、今日ももっと早く帰りたかったけど」
足りないものが満ちていく感覚。謝らなくても、僕はもう腹十二分になった。彼女は笑顔を浮かべて七、八才下向けのキリンのぬいぐるみを渡す。
「これ、クリスマスプレゼント。気に入った?」
少し不安そうな彼女に僕は満面の笑みで答える。
「うん、ありがとう!」
この日から、僕の好きなものは蜜柑と十何才も対象年齢が下のぬいぐるみになったのだった。

アクセサリー
「ただいま」
言葉は空しく部屋に響き渡る。シングルマザーだった母はもう再婚して、実家で幸せそうに暮らしている。最初は誰かに家庭が壊されてしまうことに恐れ、反対していたけれど今まで育ててくれた母の幸せと家計を考えていたら、いつの間にか承諾していた。まだ少し距離感を覚えるけど、俺も今年で成人、お互い大人なんだから別に気にしてない。
去年、そんな巣を立ち大学進学のために上京をした。シングルマザー家庭だから特段家事に苦戦することはなかったけど、親の目がないから少しだらしなくなってしまった。特に料理は億劫になってしまい、塩パスタを何食も繰り返し食べるようになっていた。
そんな俺が同学年同い年の彼女が出来てから色んな料理をするようになった。大学一年のクリスマス十日前に出来た彼女を想って作る料理は、こんなにも楽しいことを知った。美味しいと口角を上げる彼女に、また料理を作ってあげたい、早く時間が進んで欲しいってそう本気で思うようになっていたのだ。知ったのは料理の楽しさだけじゃない。ファッションとか、少女漫画とか、デートスポットとか、知らないし興味もなかったことに関心を持ち、世界が広がっていった。だから、この時間がもうちょっと、いやずっと続いてほしかった。

「さよなら」
昨日見せた彼女の冷たい表情は、今まで見せたことがないものだった。俺にとっては些細なことが、彼女にとっては大きなことで、大きな喧嘩を多くするようになって、数ヶ月、それでも別れることなんてないと思っていた俺の浅はかさを打ち破って彼女は口を破った。彼女から浴びた罵詈雑言に覚えるのは怒りではなく、そんなことにも気づけなかった自分への不甲斐なさだった。ただただ、口を開くばかりだった俺は、話が進むにつれて口を噤み、最終的にはまた口を開いて謝罪の言葉を吐くのだった。
一人の部屋には、まだ愛の巣の温もりが残っている。色んなものを捨てても尚、彼女の影がちらついて離れない、本当は離したくないのかもしれない。こうやって文章に起こすのもいもしない誰かに話して楽になりたい気持ちと話した言葉は消えてなくなってしまうということへの畏怖の相克が現れているのかもしれない。
捨てようとしても捨てられないものが三つだけあった。彼女に今年渡すはずだった、イヤリング。イヤリングをプレゼントに選んだのは単純に似合うからというところもあったけど、一般人より少しだけ長い耳たぶ、そんな細かいところまで全部愛してるという意味を込めていた。両耳合わせて二つ、高くて買ったばかりだから捨てる気には到底なれなかった。
残りの一つは、彼女からの誕生日プレゼント、つまり手編みのマフラーではない。それは彼女がここを立つときに引き取ってしまったみたいだ。もうあの温もりを、二人でも一人ですら感じることができないなら、もう少し身に纏うべきだった。後悔ばかりが募って、際限なく俺を責める。
残りの一つは、去年のクリスマスにもらった安っぽいアクセサリーだ。あなたっぽい、そう言われてからほとんど毎日着けていた。なくしてこんなことになってるのに、彼女をなくしたらすぐに出てくるんだから疫病神が宿ってるとしか思えない。

俺以外誰もいない部屋で、塩パスタを茹でる。沸騰して揺らいでただけの水面が、いつの間にか余計に揺らぐようになっていた。ポタポタと、地面に水滴が落ちて、ああまた拭かなきゃなとため息が溢れる。今までと同じ、つい最近までより長くて退屈な調理時間は、もうしばらく来ないで欲しいのに日に三回は来てしまう。
首にかけたアクセサリーが、見ないで欲しい俺の無様な姿をギラギラと煩く見守ってることに気づく。何故か視界が余計に揺れて、何が何だか分からなくなった。あの笑顔もあの思い出も本当のものだったのか分からなくなった。お前のせいだ。そう独り言を呟きかけて慌てて取り消し
「最低だな、俺。ごめんな」
その言葉が誰宛なのか、そこについては明かさないことにしておこう。
そうして、この日から俺の大事なものは、蜜柑と子供っぽいキリンのぬいぐるみ、そしてどこでも買えそうなアクセサリーになったのだった。

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