下手なピアノ

海の上のピアノ、のを二回重ねて不自然な文法は、不自然な言葉は、この街の波音を指すらしい。海の上のピアノ、なんてどこかの映画タイトルからとったような言葉は、でもその汚さを見えなかったことにするフィクションに負けないくらい綺麗だった。写真には写せない美しさが僕の街にはあるのだ。
昔からこの街に住む僕が、その言葉の意味をきちんと感じられるようになったのはつい最近になってから。昔からこの街に住んでいたから、波なんてたまにうるさく感じるだけだった。海なんてただ汚いところで、ピアノなんてあるはずもないとずっと前から思ってた。この街なんて、ただ自殺者が出てないことだけが誇りの下らないところだと思ってた。
昔からこの街に住む僕が、その言葉の意味をきちんと感じられるようになったのは日常を失ったから。昔から住んでいたこの街から、引っ越して懐かしく恋しく感じたわけじゃない。青春なんて、なんて思ってた僕に、彼女は海の上のピアノがあるのだと思わせた。

「私は好きだよ、この波の響き」
なんて言葉だけで。それだけで砂の上の文字を波がかっさらうみたいに僕の視線と心を奪った。雑音だったはずの波のメロディーが本当に耳に流れてきたのだ。それから、僕は四六時中、それこそ夢の中さえも彼女のことを思い続けた。周りから見ても僕は普段通りぼーっと何も考えていないように見えていただろうけど。

「ねぇ」
なんて彼女の言葉が鬱陶しくて。うんとかすんとか返事は上の空で、いつまでも鳴り続ける五線譜のことばかり気にしていた。音楽に詳しくなくても、一度聞けば分かってしまうオーケストラのようで離したくても耳元から離れない。彼女がそこからいなくなっても気づかないくらい、僕は波が、この街のことが好きになってた。それを伝えなきゃいけないなんて自然に思っていた。

「今まで知らなかったんだ、こんなにここが魅力的なところだったなんて」
彼女はそれを聞いて、一瞬だけ空を仰いだ。この廃れた田舎にきらびやかに輝くルクスは当然のように僕らを照らしている。今まで知っていたはずなのに、その三々五々な星々のことを一々気にすることはなかった。いつの間にかこちらを向いていた彼女に気づいて、こちらが視線を向けると、優しく口角を上げて話す。聞こえなくても良いと言わんばかりの、小さな声だった。
「海の上のピアノを弾いてるのって、私なんだ」
本当に海の上にピアノがあるのか。海の上に人間がどうやって立つのか。そもそも彼女は人間なのか。その他諸々出てきた疑問がどうでも良くなるくらいの直観が、ピアノは奏者がいることで成立するという当たり前が、僕を襲う。ただピアノがあるだけでは無音なのだ。
「私が海の上のピアノを弾いてるのはね、この街が好きだからだよ。この街が、この街であるために、灰色は、退屈はいらない。君の杞憂を晴らすために私は貴方の元へ現れた。でも」
「嘘だって言ってよ。出会いは偶然だって、嘘吐かないって言ってたじゃないか。それにどうすればいいんだよ。僕は君が」
そこまで言っても崩れることのない彼女の笑みが突然怖く思えてしまって言葉が詰まる。まるで、黙っている方が正解だと誘導されているみたいだ。
わかってた。彼女は嘘を吐くことを。言っていた、彼女は『必要ない』嘘は吐かないと。文字通り意味通りとれば、必要があれば吐く嘘はあるのだ。
「私は、もう行くね。そうしないとピアノが怒っちゃうからさ」
そう言いながらも彼女は今もピアノを弾き続けている。僕の耳の中で響き続けている。それなら、ここから、いなくならなくても。彼女は僕の思考を見透かしたように告げる。
「逆なんだ。本来、私はここにいなくても良いのに、ここにいなければいけなくなる目的が生まれた。それを達成した以上ここにいる意義もないから帰っていくだけ」
「そんなに大層な目的なの?それは」
「さっきも言ったでしょ。君がこの街で退屈にならないように。それか私の退屈しのぎ」
彼女はさも当然のようにそう言い残してどこかへ消えた。
「僕は君が好きだったよ」
そう後から告げたところで届くわけもないと知りながら。宛先不明の言葉は空を鮮やかに舞う。海の上のピアノはただの波音に戻っていた。

あの日、何故あそこに一人でいたのか、いつの間にか思い出せなくなっていた。いつの間にかいつも通りの日常へと戻って、でもどこか前よりも退屈しない日々は、何か欠けている気がして、満ち足りていた。このまま時間が、青春が、続いてくれれば良いのに。そう思ってたある日、彼女から久々に呼び出された。午前中から暗くなるまでずっと遊んで。別れ際に、
「私達、別れましょ」
その言葉に驚きを隠せずにいると、彼女はこちらを見ながら続ける。
「最近、何かに夢中で私のことなんてどうでも良くなってたでしょ。最初はそれが信頼されてるみたいで嬉しかったけどもうその目に私が映ることはないって知ってから悲しくなった。今日だって、ずっとそうだった。だから、さよなら」
勢いまかせで呼吸の間も置けなかった彼女はそれくらい感情的で、僕を想っていてくれてたんだろう。彼女への対応が上の空で、返事はうんとかすんとかばかりだったのは確かだ。でもそこにはちゃんと理由があったはずで、意味があったはずで。それなのに思い出せない、霞がかかっているようで、食っても食っても残ったままだ。
「止めてもくれないんだ」
そう言って彼女が消えてく様にデジャヴを覚えた。最低の星明かりが僕を照らす。空に浮かぶ黒さえもこの街には必要なものだ、なんて何の理由もなく考えていた自分に気づいて頭を掻く。この街の波音が今日はいつもよりもうるさい。

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