月とパイナップル

今日は月が綺麗だ。いや、別に夏目漱石を意識したわけじゃないけど。中秋の名月と朝、テレビの天気予報が報じていたっけ。珍しく見上げた夜が、そんな珍しい芸術品なら最近の憂いもどうでも良く思えてしまう。この日が自分のためのものにあるとすら感じてしまう。日というよりは月か、そんなことはどっちでも良いな。僕の視界は上の空に釘付けのままで、頭もなんだか上の空になってた。
「ちょっと。遅いよ」
語気から判断するに怒ってるみたいだ。そんなここまで来るのに時間がかかった覚えはないけど。
「ねえ、聞いてるの?さっきからそっぽ向いて」
「いや、ごめんね。今日、中秋の名月らしくて、思わず見とれちゃって。遅れちゃったのもそれで歩みがいつの間にか遅くなっちゃったのかも」
彼女の方に目を向けると、それはそれは大層恐ろしい形相をしていて今日の月に美しさを奪われてしまったみたいだ。
「相変わらずマイペースね、全く。そんなの、一年に一回じゃない。これからもまた見れるでしょ」
確かにそうかもしれないけど。というかそうなんだけど。
「この月を来年も一緒に見たいなって」
少しの間、口を塞げずにいた彼女は一度口を塞ぐと少しだけ唇を動かして言葉を紡ごうとする。そんな高等な口頭技術を持ち合わせてるわけではない彼女から漏れだすのは
「あっ、うっ、うー」
みたいな言葉にならない音の羅列だった。結局ちゃんと唇が動くようになってからぎこちなく話す。耳は僕の言葉を聞いてからずっと赤いままだった。
「あっ、えっ、それって。私も来年、いやもっとずっと一緒にいたい」
信号が赤だったから、自然と止まって、なんとなく体をお互い回転させて向き合う。そのまま流れで一度口づけをした。中々やめどころが見つからなくてやめた時には信号は緑色が点灯していた。
「行こっか」
彼女はコクりと頷くと、少しだけ手をこちらに差し出す。僕じゃなきゃ見逃してるくらい。その手を握ると足早に信号を抜ける。信号を抜けた先に特別なものがあるわけじゃないけど。
静かな街に人気はなく、2人だけの国が広がってるみたいだった。誰かに触れられるとすぐ消えてしまう制限はあるけど。それを上から目線で見守るあの月を、僕ならなんて言葉にしようか。
「月がパイナップルみたいだ」
彼女は不思議そうな顔をして
「それ、どういうこと?」
「その内分かるよ」
彼女はいつもの調子に戻って
「ちょっと、気になるじゃない!」
この話で僕が誰で彼女がどんな人物でで、何故待ち合わせてどこへ向かうのか、明かすことはしない。個人情報を特定することなんて簡単だから公開する情報には気を付けなくちゃいけない。だから、そんなことは勝手に誰かが考察でもなんでもすれば良いけど、これはどこかの誰かと誰かの話に過ぎない。それでもこの情報だけは明かしておこう。僕はパイナップルが食べ物の中で一番好きだ。

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