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精神病院

 窓に雨が吹き付けて、カタカタと音を立てていた。眼鏡がない。ボーっとした視界の中、窓の外の木は枇杷だろうか。白いスクリーンの向こう側には、誰かいるようだ。少し足を動かしてみる。ごわごわとした感覚が股にあった。どうやら紙おむつをつけられているようだ。耳を澄ましてみる、時々トイレの水を流す音、そして、叫び声、たしなめる声、パタパタと廊下を走る音は看護師だろうか。そうか、昨日、救急車で病院にきて、入院したのだ。とうとう、こんなところまで来てしまった。もう、取り返しのつかないところまで来てしまった。そう思った。

 2012年5月2日。私は精神病院に入院した。翌日、家族総出で面会に来てくれた。少し怯えたような義母の顔、憐れむような義父の顔、息子は仕方ないなぁ、と言う様な顔をしていた。心配そうな顔で、覗き込むように私の目を見て夫が訊く。

「覚えてる?昨日、『私は神だ』って言って、それで、すぐ入院になったんだよ。」

「へぇ、そんなこと言ったんだ。」

私は平常を装い、笑いながら昨晩のことを思い出していた。

 適応障害という病名で、精神科のクリニックで内服を始めた。パキシルは寝汗があまりにもひどく、医師に相談したら、サインバルタに変更になった。少し気分が前向きになるようで調子が良かった。しかし、どうしようもない落ち着かなさが出て、アキネトンを内服し始めていた。そして、無呼吸を起こすようになった。気が付くと呼吸が止まっているのに、苦しくないのだ。暫くは、意識を呼吸に向けることで改善できた。しかし、無呼吸が起きる間隔が短くなってきた。意識して深呼吸をする。気がつくと、呼吸が止まっている。焦って過呼吸になる。このまま寝たら、死んでしまうかもしれない。私は焦って精神科救急相談に電話をした。電話の向こうで看護師が困ったように言う。

 「当直の先生は、大丈夫だから睡眠薬を飲んで寝るようにと言っています。」

 「意識していないと、呼吸が止まるんですよ。寝てしまったら、そのまま死んでしまわないですか?」

「大丈夫だと先生が言っています。」

それ以上看護師に言っても仕方がない。電話を切った。

 寝たら死んでしまう。2秒で吸って、2秒止めて、4秒で吐いて。繰り返した。夫を起こして、寝ないで呼吸をするように見張っていてくれと頼んだ。眠気をこらえて頑張って協力してくれていたが、夫が寝こけてしまうと、息子を呼んだ。

「お母さん、寝たら息が止まって死んでしまうから、ちゃんと見張っていてよ。」

「うんほら、お母さん、吸って、吐いて。」

 瞼が自然に閉じてしまう。そうすると、瞼の内側の目が開く。暗い中に明るくスクリーンが現れる。全てが理解できたと思った。私はマリアだ、息子はキリストだ。息子に言う。

「お前はマリアの子、キリストなんだよ。」

「はいはい、分かったから。」

白々と夜が明けた。

 救急車を呼ぶことを承諾した私に、ほっとしたように夫が手配している。それからの事は、断片的にしか思い出せない。部屋に上がってきた救急隊員に、大丈夫歩けますと言いながら、階段で座り込んで動けなくなってみたり、玄関で飼い犬のクーも一緒に連れて行くと駄々をこねたりした。最初、義父が間違えて自分のカルテ番号を伝えていたようで、内科に連れていかれ、医師に「なぜここに来たんだ?誰が救急車を呼んだんだ?」と高圧的な態度で責めるように言われた。優しくあやすように、車椅子で息子が病院内を連れて行ってくれた。精神科の医師に「あら、先生いい男ね。」と言ってみたりした事は、なんとなく記憶にある。その後は分からない。

「精神病発作ですね。そのまま改善して、再発しない方も多いですよ。連休中くらい入院していれば大丈夫でしょう。」

 翌日、ポータブルトイレは片付けられ、オムツも外された。私は大部屋に移った。私よりかなり年下の女性が3人いる畳部屋だった。窓からは川が見えた。川岸には菜の花が盛りだ。ただ《美しい》と思った。

「私はゆっこ。この子はかおる。こっちはともこ。よろしくね。何でも聞いて。ねえ、あさこちゃんって呼んでいい?」

人懐っこく話しかけてくる。ゆっこは多分統合失調症だろう。新しいもの、古いもの、手首の傷跡が幾重にも連なって、まるで氷の結晶のようだ。仏頂面のかおるも多分そうだ。恥ずかしそうにうつむいている、痩せ細ったともこは拒食症だろうか。

「起床は6時。お布団は全部片付けるの。でも、よっかかったり、お昼寝したりするから、ちゃんと片付けないけどね。朝ご飯は7時。お昼は12時。夕飯は6時。結構食事はいけてると思うよ。煙草は吸う?屋上で吸えるのは14時で、看護師が付いていかないとダメなの。売店は週2回行けるよ。でも、必要なものはいつでも看護師に言えば、お小遣いから買ってくれる。明日はね、男子も一緒でホールミーティングがあるの。あさこちゃんも行こうよ。楽しいよ。」

多分、グループカウンセリングだろう。ピアカウンセリングにもなって効果的だって読んだことがある。お小遣いは持っていないが、多分看護師が夫から預かっているのだろう。煙草は随分前に止めたが、やはりここは依存しやすい傾向のある人が多いのだろうなぁ。そんなことを考えながら笑顔で頷いていた。

「この本、読んでみて。面白いから。」

ゆっこから渡された本は、統合失調症の女の子の、文通で綴られた淡い恋のお話だった。当事者が書いたらしいそれは、心理描写が詳細で中々面白かった。そんなに長い入院ではないと思っていたので、1日で読んでしまった。それからは、暇なので窓から見える景色を描いてみたり、覚えている限りの出来事を綴ってみたりした。もう20年以上続けている日記帳に、後で挟んでおこうと思った。

 夢を見ていた。夢から目覚めるたびに、過去に戻っていく夢だった。ずっとずっと過去に戻って行った。古王国時代にまで遡った。石を運ぶ沢山の人、小さく見えるそれは鎖でつながれているのだろう、列になって蟻のように見えた。私は天上からそれを見ていた。歌の上手い友人が出てきて言った。「私の名はエコー。」美しい声の妖艶な友人は、ヴィーナスと名乗った。一緒に働いていた先生はゼウスとして現れた。そして言った。「望む時に目覚めよ。」また、もっと過去に遡った。私はハエになっていた。何故か自分の尻を噛もうとしてぐるぐる回っていた。ダメだ、もっと戻らなければ。あの人が死ぬ前の時代に戻らなければ。そうすれば、あの人に病院に行くように言って、きっと助けられる。

目が覚めた。そこは元通りの病室だった。私は泣いていた。

「ごめんなさい堀越さん。ごめんなさい。あの前に、戻れなかった。」

「あさこちゃん。大丈夫?ねぇ、ねえ?

大丈夫よ、みんな同じなんだから。」

ゆっこが心配そうに覗き込んでいた。

 朝食に出て行くと、食堂には30人くらいの年齢も様々な患者が集まっていた。食事は結構いけていた。でも、数日まともに食事をしていなかったせいか、お粥も喉を通りにくい。ゆっくり喉を通すと、食道を降りていくのがわかる。まだ、神経が正常ではないようだ。見えている人が動く姿が、コマ送りのようにぎこちなく見える。聴覚が異常に敏感になっていて、イヤホンから聞いているようだ。物珍しそうに眺めている人、親しげに寄ってくる人、トランプをしないかと誘ってくれる。多分、私が一番物珍しそうに見まわしていたのだろう。食事がすむと、みんな並んで薬を飲まされた。看護師が事務的に口に薬を放り込む、水を飲むように指示する。私は手のひらに薬を受け取り、「この薬は崩壊錠ですから。」と言って、水を飲むように指示する看護師を、挑むような目で見る。看護師は諦めたように何も言わず、目をそらした。

 毎日が同じように過ぎて行った。ホールミーティングは、私は対象ではなかったらしく、参加できなかった。特に必要な物などなく、売店にも行かなかった。ただ、紐類は一切持ち込めなかったので、スウェットが落ちて仕方がなく、看護師にゴム輪を貸してほしいと言ったが、それも許されなかった。集団でお風呂に入るのも監視付きだ。順番に並んで待ち、看護師の指示で入る。看護師が「メガネは危険だから外して。」と言う。「外した方が危険です。まったく見えませんから。」絶対に外すものかとばかりに睨みつける。しばらく口論したが、呆れたような顔で看護師がひいた。湯船には入らなかった。中には放尿したりする患者がいたからだ。日がな一日、窓の外の菜の花を眺め、絵を描いたり、日記を書いたりして過ごした。

 5月8日、医師に呼ばれた。夫も来ていた。

「どうしますか?落ち着いているようですし、家で刺激の少ない生活をできるのなら、退院して家で過ごされてもいいと思いますよ。」

「退院します。家にいても同じですから。」

ゆっこが大声で泣きながら呼んでいた。

「あさこちゃん、あさこちゃん。ああ、もういなくなっちゃったかと思った。」

ボロボロ泣きながら抱き付いてくる。

「大丈夫。まだいたよ。色々ありがとうね。また、外来で会いましょうね。」

精神病院の短い入院生活が終わった。

 今では、精神科病院の入院さえ、現在の私を形作った糧になっていると言える。別に、取り返しのつかないところではなかった。

 そう思えるまでには、6年の歳月を要した。


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