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短編小説「痾と青色」

「地獄はありますか。もしあるならばわたしたちは地獄に堕ちるのですか」
 死の直前、少年のかすれ声が咲き乱れる紫陽花のさざめきに交じる。透明な日が射し込む温室のなかで人工季節は巡り、ゆたかな土壌は緩やかにぼくたちの血液を吸っていく。
「地獄はありますか。もしあるならば、…… わたしたちは…」
 彼の唇は互いの血液にまみれ、陸にいながら溺れる。たとえ地獄に堕ちようともこの厭世から逃れようと、僕たちは互いの首をかき切って無理心中を試みたのだった。
 僕たちは、僕たちの魂を蝕む堕落というものをひどく恐れた。堕落という緩やかな死を恐れた。ひとつ呼吸をするたびに、ひとつ日々や歳を重ねるたびに、崇高だった魂が腐敗してゆく錯覚に陥った。かつては透明できらきらしい魂を持っていたはずが、生活をするなかで地層のように悪徳や嘘を重ね、終いには人を憎み、人を馬鹿にし、世間を憎み、世間を馬鹿にし、この世の本質は醜さなのだと穿った見方をした。人々にうしろ指を刺され陰口を云われる妄想を常にみた。僕たちの魂は地に落ちていた。

 あれはいつだったろう。
 いつか私がだめになったら、と彼が静かに言う。 朝焼けの空はやたらと赤かった。彼のアパートも、窓に射す日も、外壁を伝う排水管も、電柱も返り血を浴びたようにてらてらと艶めかしく翳り光っていた。一面の赤色のなかでも、ひと際、彼の双眸は赤くするどかった。彼の奥底でくすぶっていたあの光は、狂気と呼ばれるものだったのかもしれないと今なら思う。
 いつか私がだめになったら……いや、きっとそれよりも前に私は自殺してしまうでしょう。これ以上耐えられないのです。堕落を重ねて、今自分がどこにいるのかも判らない。ずっと深い暗闇のなかにいるような気持です。
 私は緩やかに死んでいる。老衰とは違う、魂の退化のような死です。朝顔が閉じて、また開く、その間隔がゆっくりと広がっていくような。あるいは水底に沈んで、肺にすこしずつ泥塵や水が蓄積するなか、ゆらぐ水面を見つめているような。ただれた呼吸のなか延々と走るシャトルランのような。ひどく静かな死なのです。あえぐように息を吸い、微かに呼吸が楽になることが、たまらなく苦しい。先伸ばされた死と、それでも我慢しきれずに息を吸ってしまう私の弱さが、たまらなく苦しい。緩やかな死です。緩やかな死に蝕まれている。私は、もう、私は…… だから、ひかりの方へいくのです。私は自殺します。その時はきみも一緒に死んでくれますか。
 その時分、僕は彼になんと言っただろう。ただ、しどろもどろに言葉を次ぐ僕にむけた、彼の微笑みの幽かさだけを覚えている。
 死体の上に咲く紫陽花は、青くなるんですよ。ふたりで紫陽花を探しましょう。紫陽花を探して、そこを死に場所にしましょう。

 ごぽりと彼の口から血が溢れて、途端意識が引き戻される。死戦期呼吸のような絶えだえの呼吸が聞こえる。彼の瞳は救いを求めているように思えた。
 何よりも堕落を恐れてこれを選んだはずなのに、視界が白み、血が流れて体の震えが大きくなるにつれて、死が恐ろしくなったのかもしれない。
「たとえ地獄があろうとも、僕はきみの手を掴んで離さない。堕ちるときは一緒です。ふたりならば地獄の責め苦すらも甘美でしょう。此処で死んで、紫陽花の青色になるんですよ、僕たち」
 彼は頷くようにひとつ瞬いて、しずかに瞼を閉じ、そのまま永遠に開くことはなかった。
 花園の紫陽花たちは血の海のなかで爛漫と咲き、僕たちを呑み込む。彼は赤黒い生活を捨てて、紫陽花の青色になった。僕も段々と青色に染められてゆく。意識が浮上し、また沈む。しばらく浮上と沈下の狭間でまどろむ。段々とその感覚が長くなる。まるで体が燃えているように、熱い。
 秘め事を云うような花々のささやきが遠くに聞こえる最中、僕は穏やかに意識を手放した。


【題】穏やかに探した花園

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