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小かげで涼を・・・?

アナログ作家の創作・読書ノート    おおくぼ系

「今回は、エッセイ小説の一部分を抜粋しました。けっこうコア(笑)な箇所です! 小かげで、涼しく読んでくだっせーい! ヨロピク!」


最近はすでに古典となり忘れられている感のある、石坂洋二郎の『花と果実』が手元に残っている。若い男女の恋愛と性を戦後の男女同権の立場から書いた、まぶしいぐらいの青春小説である。だいぶ読み込んだので昭和四十三年発行のこのロマンブックスは、カバーもなくなり、背表紙もへこんで扇型に開いている。
それを懐かしく読みなおしてみると、面白い箇所に行きあたった。後半にいたり、男性のインポテンツのことにふれているのである。
 『グループ』という小説のなかで、中産階級に育った男が女子大卒業の女性と結婚するのだが、男は彼女とは性的にはだめで、最下層の売春婦でないと不能になるというのである。その一連の話の中で、「それについて、未来の女流作家の大野みえ子は何か感想を言ってなかったかい」と発展していく。
 このたび読み直してみて、この「大野みえ子」は「大庭みな子」ではないかと思い当ったのである。ご存知のとおり、大庭みな子は、昭和四十三年に『三匹の蟹』を発表してデビューし、群像新人賞、それに芥川賞を受賞した。この昭和四十三年は『花と果実』の発行年とも一致しており、「未来の女流作家」と、これからを暗示しているのも興味深い。『花と果実』では、先の話の後に、以下のような大野みえ子の考えを会話にかえて続けている。
 
――「日本でも、男はもちろん女流作家もセックスを題材に扱うけど、四畳半に寝そべってるような姿勢で扱うもんだから、ベトついた感じでうす汚い。ところがメアリー・マッカシーは、『グループ』の中で、立って青空を見上げてるような姿勢で、インポテンツや同性愛の問題をとり扱っているから、カラッとして不潔な感じがないって言ってたわ。マッカシーとかぎらず、欧米の作家たちのセックスの扱い方は、太陽の下でオープンに処理されているので、ジメジメした感じがないって……。そして、そういうことは、彼等のふだんの生活で、性行為が、日本人の場合のように、卑下された、くらがりの行為として処理されてないからだって……」
 
 昭和四十年代にセックスのテーマが、かくも大胆に取り上げられ解放されていたことは、後年小説を書き始めてから気づき、改めて驚かされた。ちなみに大庭みな子の小説、『三匹の蟹』を理解するには、文芸雑誌「群像」に掲載された「大庭みな子の特集」での田中弥生の次のような解説に待たねばならなかった。
 
  ――「三匹の蟹」はベトナム戦争中のアメリカに暮らす産婦人科医「武」の妻「由梨」が、夫の強いるコスモポリタンな社交生活に疲れ、自宅でのブリッジ・パーテイのホステス役を放棄、一人出かけた遊園地で出会った混血既婚のアメリカ人で男性「桃色シャツ」と一夜を過ごす話だ。
  ――「姦通」を描いた作品の半分を占めるのは、彼女の夫婦生活、武が自宅で開くブリッジ・パーテイの様子だ。そこに集う人々は「フォークナー研究者」フランク・スタインを中心に、性的に入り乱れた関係を持つ、あるいは今後持つ可能性がある。その場所は、奇形的に肥大させられた性的な緊張感に満ちた、「姦通」的な場であり、武はそういう緊張感、軽い乱交の予感、もしくはその気分を提供することで、異国の男たちの中に自分の居場所を確保しようとし、そのために妻の由梨に、乱交奨励的な雰囲気を肯定、積極的に高めるホステスの役を求めている。 
 
なんとまあ凄い作品を書いた女性作家がいたものよ、の一言に尽きるが、今になってみれば、しだいに始まり主流となっていく、女性作家の百花繚乱にいたる助走の時代であったと考える。また、大雑把にいって作家とは言論の自由のもとに社会的制約を超えていく存在であり、恋愛については、自由恋愛の旗手でもあるのだろう。
余談ながら、司馬遼太郎が「琉球弧で日本人を考える」という島尾敏雄との対談のなかで石坂洋二郎について、「石坂洋二郎さんは――固有名詞をあげていろんなことを論ずるのは、私のエチケットに反するのですけれども――ひじょうにすぐれた作家だと、私は考えているのです」と評している。石坂と司馬との作品の違いを考えると面白い発言だと思う。


      (エッセイは、適時、掲載予定です)

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